本の覚書

本と語学のはなし

クリスマス・カロル/ディケンズ

クリスマス・キャロル (新潮文庫)

クリスマス・キャロル (新潮文庫)

 去年も読んで、今年の頭には映画まで見ていた。最近のキリスト教への傾倒は、既にこの頃から準備されていたものかもしれない。

「誰しも人間となれば、その連中の霊魂が、同胞の間を歩きまわり、あちこちとあまねく旅行をしなければならないように定まっているのだ。もし生きているうちに出て歩かなければ、死んでからそうしなければならないのが運命なのだ。世界中をさまよい歩いて――ああ、なさけないことだ――そして今はもうどうすることもできないで、生前に自分が助けてやることもできた人たちを眺めていなければならないとは!」(p.31)

 かつての仲間であったマーレイが幽霊となってスクルージの前に現れ、放ったセリフ。人は「同胞の間を歩きまわ」らなくてはならない。開かれず、閉じていることは、それだけで罪であると言うのだ。耳に痛い言葉であった。

翻訳について

 私が持っているのは村岡花子の古いバージョンで、まだタイトルが『クリスマス・カロル』であった頃のものだ。現在は『クリスマス・キャロル』に変更されている。しかし、訳文自体はおそらくごく一部の表記を変えただけではないかと思う。
 けっこう誤訳もあるはずで、原文と突き合わせなくても首をひねりたくなる部分がある。だいたいSpiritを幽霊と訳すべきだろうかというところからして大問題だ。池央耿をはじめ、最近の訳ではだいたい精霊としている。

 ただ、昔誤訳として退けた最後の個所は、今振り返ってみると、その理路が理解でるので、一応書いておく。

and knowing that such these would be blind anyway, he thought it quite as well that they should wrinkle up their eyes in grins, as have the malady in less attractive forms.

またそういう人々は盲目だということを知っていたので、おかしそうに眼元にしわをよせて笑えば盲目という病気がいくぶんなりと目立たなくなるだけ結構だと考えていたからである。(p.149)

 最初のas wellは「適切な、道理にかなった」という意味で、形式目的語のitの補語とする。形式目的語のitの内容はthat以下。次に出てくるasを関係代名詞として、関係文の中では主語と考えれば、村岡訳になる。
 説明的に訳せば、「(心の盲目という)病にかかると目は険悪になってしまうが、目にしわを寄せて笑えば(それが馬鹿にした笑いであったとしても)ずっと魅力的になるものだ。それならけっこう、けっこう。そう彼は考えていたのだ」。
 今回気になって、この部分だけ原文を見直してみたのだが、最初に思い浮かんだ解釈とも一致した。これが正解であるか否かは分からないが(なにしろ専門の翻訳家たちが、それぞれてんでばらばらの解釈をしているのだ)、村岡訳であれば、難しいところはみんな誤訳だろうと決めつけていたのは大変失礼なことであった。