本の覚書

本と語学のはなし

Newton 2024年4月号【能登半島巨大地震】

 予定を変更して緊急特集が組まれた。
 能登半島群発地震が頻発していたことは誰でも知っていることである。ところが、この辺りはプレートが沈み込む海溝であるため、海溝型地震として扱われ、断層型地震の長期評価の対象にはなっていなかった。「ここに活発な活断層があると知らなかった地震研究者も少なくありません」と、遠田晋次教授(東北大学災害科学国際研究所)は言う。
 半島北岸の隆起は4000年分に相当する。地下から東京ドーム23個分の流体が上昇し、断層群に入り込み、群発地震を誘発した可能性がある。富山湾に寄せた早すぎる津波には、海底での斜面崩壊が関係しているかもしれない。


 核融合において日本の果たす役割は大きいようである。
 核融合原子力発電とは異なる。原子力発電で行われているのは、核分裂である。核融合は、太陽が日々体重を減らしながら行っているように、水素原子同士を融合させてヘリウムを作るのである。
 メリットは、燃料の重水素が海水からふんだんに得られること。二酸化炭素を排出しないこと。暴走しないこと(燃料の供給を止めれば、核融合反応も止まる)。原子力発電のような高レベル放射性廃棄物は生じないこと(低レベルのものは生じる)。
 デメリットは、施設の建設に高度な技術と巨額な費用が必要であること。

【道元】撞(とう)の前後に妙声(みょうしょう)綿々たるものなり【辯道話】

ただ坐上のしゅのみにあらず、くうをうちてひびきをなすこと、たうの前後に妙声めうしやう綿々めんめんたるものなり。(p.11)

ただ坐禅修行のときだけではなく、くうを打って響きの出ることは、撞木しゅもくで(鐘を)一突きする前後にも、妙なる声が続いて絶えないのと同じである。(p.11)

 中野孝次セネカ本を読んで懐かしくなり、ちょっと道元を復活させてみた。
 「辯道話」はまだ理解しやすい。だが、『正法眼蔵』の本文に入っていけば、とうてい分からせる気がないだろうというような文章が続いて、嫌になるに違いない。分かってしまえば、案外同じことしか言っていないのかもしれず、それでうんざりするのかもしれない。


 分からないなりに道元が面白いのは、中国禅の重要なエピソードがほとんど集められているからだろう。プルタルコスが古典への入門となったように、道元は禅への入門となりうるのである。
 道元にとっては、修行がそのまま悟りである。修行は坐禅に限られない。日常生活を仏法にのっとって送れば、そこに悟りが現出する。洗面の仕方や楊枝の使い方(今の歯磨きであるが)などにも異常にこだわるのは、もしかしたらただの潔癖症だったのかもしれないけれど、それが仏の道だと信じていたからである。


 修行すれば心身が脱落する。世界が全て同時に成道する。修行をしなければそのような世界は開かれないが、修行をすれば過去・現在・未来を通じて、同時に開かれるのである。あるいは常に既に開かれつつ、説法をしていたのである。
 そのような事情が、鐘を突かなければ音はならないが、鐘を突いてみれば、それ以前にも以降にも、綿々と妙なる響きが響き渡るのが聞かれるのだとたとえられている。


 だが、おそらく道元は続かないだろう。一つやることを増やすだけで、バランスが恐ろしく崩れてしまうのだ。道元を加えるなら、何かを減らさなくてはいけない。道元と交換してもいいと思うものは、今のところない。


 英語に関しても、迷いが生じている。
 ニューヨークタイムズを続けるのか(週刊で1部220円)、少しでも節約するために、今持っている英文学のテキストの読解に戻るのか。
 文学の候補は3つある。先ずはシェイクスピア。かなり気合を入れることが必要。次にジェイン・オースティン。読めば面白いには違いないのだけど、一生の友とすることはできないかもしれない。
 最後にシャーロック・ホームズ。実は「ボヘミアの醜聞」の最初の数ページを読んでみたのだが、こんなことを書くと怒られるかもしれないけど、英語が簡単すぎてちょっと物足りない。できれば翻訳者と対決するくらいの気持ちで読みたいのだが、そのような関係を取り結ぶことはできないだろう。それでも、新聞をやめるなら、代わりにホームズを選ぶ可能性は高い。


 求人に応募するかもしれない。

【モンテーニュ】冷静に議論しようとする人は【エセー1.45】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第45章「ドルーの戦いについて」を読了する。
 ドルーの戦いとは、第1次宗教戦争のときに、パリ西方80キロの町ドルーで行われたカトリックプロテスタントとの戦闘のこと。
 カトリック側では、モンモランシー元帥が窮地に陥る中、ギーズ公はこれを救援せず、敵を背後から攻めるチャンスが来るのを待った。これを非難する人たちもあったが、モンテーニュは大局的に見て間違ったことではないと考えるのである。
 ちなみに、ギーズ一族とモンモランシーの不仲は有名であったというし、モンテーニュカトリック右派のギーズに思想的な親和性を感じていたなどということはない。


mais outre ce que l'issuë en tesmoigna, qui en debattra sans passion me confessera aisément, à mon advis, que le but et la visée, non seulement d'un capitaine, mais de chaque soldat, doit regarder la victoire en gros, et que nulles occurrences particulieres, quelque interest qu'il y ayt, ne le doivent divertir de ce point là. (p.274)

だが、勝利という結果によって示されたことは別としても、あの戦闘のことを冷静に議論しようとする人は、「大将のみならず、各兵士の目標と狙いは、全体の勝利をめざすべきであって、いくら利害があろうとも、個別の状況ゆえに、この目標を逸脱してはならない」と、わたしに告白すると思うのだ。(p.241)

 モンテーニュは自説を補強すべく、同じく最初の内は味方が負けるに任せ、機を見て反撃に転じたフィロポイメンの例を挙げる。
 また、運命に好機を恵まれながら、武勇の誉れのために、あえて敵を背後から襲うことをせず失敗したアゲシラオスの例も挙げてみせる。
 なお、この2つの物語は、プルタルコスの『対比列伝』から借りてきたものである。


 気になりつつも、迷っていた求人があった。昨日の午後、ハローワークに行こうと思って今一度確認してみたら、午前にはまだ有効であった求人が、無効になっていた。あまり残念にも思わないということは、これでよかったのかもしれない。
 その職場に行くには車が必要だったが、これで車の購入もいったん見送ることにした。また徒歩でも通える範囲で探すことにする。