本の覚書

本と語学のはなし

『A Christmas Carol』


●Charles Dickens『A Christmas Carol』(Bantam Classic)
 明日読み終える予定だったのだが、面白くて最後まで読み通した。しかし、村岡訳に誤訳が多いということを何度も書いているように、それほどやさしい読物ではない。意外に苦労してしまった。


 今日気になったところを二つだけ挙げておく。
 先ずは、スクルージが以前追い払った慈善活動家に、回心後ばったり出会う場面。

 It sent a pang across his heart to think how this old gentleman would look upon him when they met; but he knew what path lay straight before him, and he took it.

 二人が顔を合わせたらこの老紳士が自分のことをどんな風に見るだろうと思うと、スクルージは思わず胸がずきずき痛むのをおぼえた。
 しかし、彼は自分の前に真直ぐによこたわっている道を知っていた。自分のとるべき道を知っていた。そしてそれに向かって進んだ。(村岡訳143頁)

 スクルージは、ここで会ったら相手は何と思うだろうかと、ばつの悪い気がしたが、とっさに曲がる角もなく、そのまままっすぐ行くしかない。(池訳161頁)


 池訳のようなことが言いたいとして、こんな書き方をするだろうか、というのが一番の疑問である。この後スクルージはこの紳士にかなりの額の寄付を申し出ていることからして、回心にふさわしい意味が込められた文章と見るべきではないだろうか。


 次はほぼ末尾の文章。スクルージの変わりようを笑う者もいたが、彼はいっこう気にかけなかったという。

 and knowing that such these would be blind anyway, he thought it quite as well that they should wrinkle up their eyes in grins, as have the malady in less attractive forms.

 またそういう人々は盲目だということを知っていたので、おかしそうに眼元にしわをよせて笑えば盲目という病気がいくぶんなりと目立たなくなるだけ結構だと考えていたからである。(村岡訳149頁)

 おまけに、人を笑うのは理解の不足であって、自分の無知を棚に上げて笑うことの方が見苦しいことを思えば、何と言われようと痛くもかゆくもない。(池訳168頁)


 これは『クリスマス・キャロル』の中で最も難解な文章かもしれない。どちらの翻訳も、どのような思考の過程を経て捻出されたものか私には見当がつかない(池訳は前の部分と融合させているような気もする)。
 昔メルマガでこの作品の原典講読をやった人がいるようで*1、その人の解釈によれば「it(=that以下)をas well(同様だ)と考える」とするべきではないかという。私にはどうもそれも理解ができない。特に、「as have」以下がうまく処理できないような気がする。
 そのメルマガでは否定されているが、「as well as」の構文と考えるのが、私には一番すっきりする。つまり、「it(=that以下)をas以下(重複によりthat they shouldが省略されたとみなすのは不可能だろうか?)とas well(同様だ)と考える」ということである。*2ちなみに、メルマガからの孫引きになるが、集英社文庫の中川訳が同様の解釈をしているそうである。「そういう連中はどのみち盲目で道理のわからない者たちだということを承知していて、彼らが目にしわを寄せてあざ笑うのは、その病をいっそう醜くするのも同然のことだと思っていた」。*3
 偉そうに書いたが、よく分からないというのが本当のところである。


 明日からレベッカ・ブラウン『体の贈り物』に取り掛かる。参照する翻訳は、新潮文庫柴田元幸訳。


A Christmas Carol (Bantam Classics)

A Christmas Carol (Bantam Classics)

*1:http://www.ne.jp/asahi/fogbound/journal/ato03.html

*2:メルマガで否定されている理由は、比較されるものは同格になるので、「have」が「having」にならなくてはいけないというもの。

*3:とんでもない間違いだという気もしてきた。分かりかけたような気もするが、新たな説にも問題があるようなので、暫くこの問題は寝かせておくことにする。