本の覚書

本と語学のはなし

『町でいちばんの美女』


チャールズ・ブコウスキー『町でいちばんの美女』(青野聰訳、新潮文庫
 もともとは『勃起、射精、露出、日常の狂気にまつわるもろもろの物語』という短編集だったのを、後に『町でいちばんの美女』と『ありきたりの狂気の物語』に分割した。もちろん上品な話ではない。
 自伝的要素の強いものと、まったくの空想の産物があるけど、後者は概してつまらない。若い頃に転々とした仕事を反映した話や、アメリカへの言及があるところが好きだ。

 私は牛をかついでトラックにむかった。アメリカで生きるというのはどういうことか。敗北がどんなに恥ずかしいことであるかは、いやというほど教えられている。なにがあっても牛を落としてはならなかった。そんなことをしたら人間のクズになる。なんの価値もない無用の男となって、笑いものにされ、いいようにこづきまわされる。アメリカでは勝たなければだめなんだ。それ以外に道はない。(精肉工場のキッド・スターダストp.27)

 電光掲示板から目を離すな。アメリカ社会においてカネは死よりも重要だ。ただで手に入るものはなにもないとおもっていたほうがいい。ブックメーカーが6倍をつけた馬が、あとで14、5倍になっていたら、そういう馬はやめることだ。(聞いて損はない競馬の話p.185)

 アメリカ。あそこは、人から生きる力の最後のひと雫までしぼりとるところだ。そうやって人を殺して葬りさるところだ。知り合いの詩人、ラーセン・カスティリャは私について長い詩を書いた。最後のくだりでは、雪の降る朝、なにかが盛り上がっているので雪を払いのけたら私がいた、というふうになっていた。「ラーセン、どうしちゃったんだ」と私はいった。「雪を払いのけてくれるやつがいるなんて、そんなの考えが甘い」(白いあごひげp.410)


 酒に浸り命を落としかけ、定職につかず金に困りはするけど、どこか静謐なところさえある。一番好きなのは「かわいい恋愛事件」だが、その辺りの秘密を少し明かしてくれている。

 ウィスキーの残りを飲む気はしなかった。裸のまま台所に坐って、どうしておれは人に信用されるんだろうかと、あれこれ頭をめぐらせた。おれは何者なんだ? 人々は頭がおかしいんじゃあるまいか。単純すぎやしまいか。おれをいい気にさせてくれていた。そう、おれは10年間に1度も定職につかないで暮らしてきた。人がカネや食い物や泊まる所を提供してくれた。アホとおもってなのか天才とおもってなのか。そんなことはどうでもよかった。私には自分が、そのどちらでもないことがわかっていた。なぜ人が贈り物をしてくれるのかということにも関心はなかった。ただ受け取る。くれるものは受け取る。しかし勝ち取ったかのような、あるいはくれるようにしむけたといった感じはまったくなかった。なにものも求めないというのが、わたしにとっての生きてる大前提なのである。加えて、脳のてっぺんでは、小さなレコードがぐるぐるとまわって、同じ歌を繰り返しうたっていた。「なんにもするな、なんにもするな」至極もっともなことにおもえたものだ。(かわいい恋愛事件p.330-331、太字は引用者)


 翻訳の力もあるのかもしれない。「意訳、誤訳、超訳、抄訳、直訳、編集など、つかえる手はすべてつかった」という。「ブコウスキーの文体の芯のようなものが、おだやかでクールで、調子がたんたんとしている」と信じ、「静かな調子の、おだやかな日本語にするようこころがけ」たという。私の読む限り、それは間違っていないように思う。彼がヘミングウェイに影響を受けているらしいのも、関係しているだろう。


 ただ、読んでいるとだんだん飽きてくる。当分ブコウスキーは手にしないだろうし、全部を読むこともないだろうし、原文に挑戦することもないだろうし、ひょっとしたらこれきり二度と思い出すこともないかもしれない。