Le monde n'est que varieté et dissemblance. (p.339)
世界は多様性と差異でしかない。(p.26)
モンテーニュ『エセー』第2巻第2章「酔っぱらうことについて」を読了する。
酒に酔うことだけではなく、自惚れの導くところや殉教者の凄まじい高みについても触れられる。
モンテーニュの引用には、ときどき苦労させられる。
J'ayme mieux estre furieux que voluptueux, mot d'Antisthenes, Μανείειν μᾶλλον ἢ ἡθειεῖν ; (p.347)
「マネイエイン・マッロン・エー・エステイエイン」〔原文ギリシア語〕、すなわちわたしは快楽に溺れるぐらいなら、気が狂ったほうがましだ」という、アンティステネスのことば (p.40)
原文のギリシア語というのが、どうにも理解できない。動詞の語尾の「エイン」は方言なのだろうかと思ってもみたが、文法書にもそのような記述はないようだ。
ディオゲネス・ラエルティオスのテキストを調べてみたら(大概の古典はネットで読むことができる)、やはりただの希求法の語尾だったようである。
なお、宮下が「エステイエイン」と音写している語は、私が持っているいずれの『エセー』でも「ヘーテイエイン」であって、sがない。1595年版で加えられたものだろうか。『哲学者列伝』では「ヘーステイエーン」であるから、本来あるべきものではある。
μανείην μᾶλλον ἢ ἡσθείην
語尾の「エーン」を「エイン」と表記するのが、モンテーニュの時代の慣用であったのかどうか、私は知らない。だが、単純な間違いということではないだろう。
次の章に、ウェルギリウスの『アエネイス』からの引用がある。
qui sibi laetum
Insontes peperere manu (p.352)
罪もないのに、わが手で死に果て〔た人々〕(p.51)
ここのlaetumも、この綴りのまま解すると、「愉快な〔人〕」とでもするしかなく、意味が通じない。ウェルギリウスの原文を見ると、letus、即ち「死」のことであった。ae、あるいは合字のæはeとほとんど同じものであるから、その逆も成り立つのであろう。
だが、現代のテキストが明らかなタイポを犯している場合もある。
翻訳も(日本語訳、フランス語訳、英訳とも)、古典の専門家のそれに比べると、アバウトなことが多い。
パソコンに触るのが、段々と嫌になってきてしまった。