本の覚書

本と語学のはなし

【プルタルコス】哲学へと導かれるため【若者は詩】

 プルタルコスの『どのようにして若者は詩を学ぶべきか』を読了する。
 やや長めの論考。同じ時間を使えば、プラトンの小品を読むこともできただろう。馬鹿馬鹿しい努力だと思う人もあるかも知れないが、外国語を眺めながら、ただそれだけで気分の高揚を感じるのは、プルタルコスの書を開いているときにしばしば経験することなのである。


Διὸ καὶ τούτων ἕνεκα καὶ τῶν προειρημένων ἁπάντων ἀγαθῆς δεῖ τῷ νέῳ κυβερνήσεως περὶ τὴν ἀνάγνωσιν, ἵνα μὴ προδιαβληθεὶς ἀλλὰ μᾶλλον προπαιδευθεὶς εὐμενὴς καὶ φίλος καὶ οἰκεῖος ὑπὸ ποιητικῆς ἐπὶ φιλοσοφίαν προπέμπηται. (37B)

したがって、これらのことや以上述べてきたすべてのことのために、若者には読書についての善き案内が必要である。それは若者に偏見を抱かせることなく、前もって教育が与えられ、若者が詩によって好意と愛着と親しみを抱いて哲学へと導かれるためである。(p.132)

 文学は有害であるというのは、昔から言われてきたことであり、しばしば哲学者によってすら排斥されてきた。
 しかし、詩や歴史を好むプルタルコスは、何とかしてこれを救おうとする。その戦略は、文学のための文学ではなく、哲学のための文学であった。詩は徳に寄与すべきものとして解釈され、ときにはかなり強引に理性に服従させられる。


 詩の引用が多くて楽しい。引用によって分断される地の文章は、それほど長くなりすぎることもなく、それほど悪文へと傾くこともない。
 全体が長いことと、詩の語形はやや特殊であって予習を必要とすることを除けば(特にホメロス)、プルタルコス入門にちょうどよい。


 次は、ロウブ叢書でも西洋古典叢書の翻訳でも第2巻に収められている『アポロニオスへの慰めの手紙』を読む。
 慰めの手紙は一つの文学ジャンルであるけれど、ときとして現代の我々の感覚に合致しないような言葉も見つかる。それが古代人の無神経なのか、我々が真実を覆い隠そうとしているだけなのか、考えてみる必要がある。


 モンテーニュセネカプルタルコスだけに精力を傾注するということに満足はしているのだが、日本語能力の劣化に危機感を抱いてもいる。
 私の場合、そのための最良の処方薬は常に森鷗外であるのだが、「ニュートン」の定期購読が終り、三賢人の翻訳を一通り読み終えるまでは、ふたたび鷗外を訪れることはないかもしれない。寂しいことである。