本の覚書

本と語学のはなし

「夕顔」読了

うちとけで向かひゐたる人は、え疎みはつまじきさまもしたりしかな、何の心ばせありげもなくさうどき誇りたりしよと思し出づるに憎からず、なほ懲りずまに、またもあだ名立ちぬべき御心のすさびなめり。(夕顔18)


 「こりずまにまたもなき名は立ちぬべし人にくからぬ世にし住まへば」(古今・恋三、読人しらず)を引いた文。夕顔が亡くなり病に伏した源氏ではあったが、再び空蝉と軒端の荻と歌のやり取りをして、懲りぬ本性を確認していく。


 ギリシア語、ラテン語、ドイツ語は休止して、暫く毎日古文を読んでいる。さすがに日本語であるから、少し集中して訓練すれば直ぐに目に見えて成果が出る。『源氏物語』も大分読みやすくなった。ということは、大抵の古文には歯が立たぬこともないだろう。現代語で書かれたものと遜色ないスピードではかが行くものもたくさんあるはずだ。
 さて、『源氏物語』は一旦中断して、ブコウスキーの残りを先に読む。英文、仏文と並行して、これまで古文の枠を設けてきたが、それを和書へと拡大するべきか。対照的な好色物語で実験してみる。


 まっとうな就職はできそうにないので、工場勤務もターゲットに入れ始めた。先日は塾が終わってから、ある工業団地を見てきた。自転車で自宅まで約35分。何とか通える距離だ。私の生活リズムからして、夜勤でも耐えられそうな気はする。
 底辺の人々が集まっているのだろう。日系ブラジル人や中国人もいるかもしれない。「だが、それこそが、そこにいる誰もがおもってることだった。おれの居場所はここじゃない。みんな、それぞれ正しいのだ」(『町でいちばんの美女』p.168)。そうブコウスキーが言うような所だろう。だが「おれの居場所はここだ」と満足げに言う連中の居場所に、どうして私は留まることができるだろうか。
 塾にはほとほと嫌気がさしてきた。しかし、1学期の終わる7月下旬までは辞めるわけにいかない。昨年の今頃と同じように(あの時ほど深刻でないにせよ)、あと7週間と指折り数えている。まだ7週間ある。もう少し考えてみよう。