本の覚書

本と語学のはなし

眺めのいい部屋

...thinking of the kind old man who had enabled her to see the lights dancing in the Arno, and the cypresses of San Miniato, and the foothills of the Apennines, black against the rising moon. (p.12)

ルーシーは部屋を提供してくれた親切な老人のこと、眼の前のものを見る機会を与えてくれた老人のことを思った。アルノの川面に躍る光の粒子。サン・ミニアートの糸杉の木立。アペニン山脈の手前の低い山並み。そして明るい月を際立たせる漆黒の空。(p.29)


 『眺めのいい部屋』の翻訳は好きになれない。削りすぎたかと思えば、余計なものを付け加えすぎる。読みやすくこなれた訳文になるなら多少は目をつぶるが、出来上がりを見れば不自然な作り物の日本語の域を出ていない。
 上の引用は一つの例として挙げてみた。「光の粒子」は「lights」が複数形になっているのを粋に訳してみたのだろうけど、複数形は川面のさざ波の各面に反射する光を表現しているように思える。それは粒子ではない。「漆黒の空」はやりすぎだ。空なんてどこにも書いてない。この「black」は明らかに前の名詞にかかる形容詞である。東の方、アペニン山脈の上に月が昇るから(翻訳では「rising」は無視されているか、もしくは「明るい」に置き換えられている)、手前の丘陵地帯には光が差さないのであろう。間違えようはないから、誤訳というより確信犯に違いない。関係代名詞の処理の仕方もお世辞にもうまいとは言えない。
 一方が訳したものに他方が手を入れるという共訳の方法を取ったというから、後の方の人は勢い創作的態度になってしまったのかもしれない。説明的な翻訳はまだいいが、原文の含意しないところまでは行ってほしくない。