本の覚書

本と語学のはなし

現成公案から枕草子

得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。(p.56-57)

(修行して)自分に得た内容が、必ず自己の知識・見解となって、自分の思慮・知覚に知られるであろうと思い慣わしてはならない。真実に生きる実証の究極は直ちに現成しているのであるが、自己にもっとも親しい真実のあり方は、必ずしも現成しているものではなく、現実に現れている事実は何必(何ぞ必ずしも……ならんや)という、人間の知識・判断ではとらえきれないものである。


 昨日さわりだけ読んだ「現成公案」を、今日一気に終えた。しばらく道元を読むときは、解釈本を使わず、現代語訳を見るのも必要最小限にとどめて、スピード重視でさくさくと進める。
 再び清少納言に戻ると、非常にバランスのいい感じがする。

 説教の講師は、顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことのたふとさもおぼゆれ。ひが目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは、罪や得らむとおぼゆ。このことはとどむべし。すこし年などのよろしきほどは、かやうの罪得方(えがた)のことは書き出でけめ、今は罪、いとおそろし。(第31段)

 説教の講師は、顔の美しい人がいい。講師の顔をじっと見つめていればこそ、その人の説くことの尊さも自然感じられるのだ。さもないと、よそ見をしてしまうので、たちまち説教も聞き忘れるから、にくらしい顔の説教師の話を聞くのは、おそらく罪を犯しているのだろうと感じられる。このことは書かないでおこう。もう少し年が若いころは、こうした罪を得るような筋の事も書き現しただろうが、今の私のような年では、仏罰がたいへん恐ろしい。


 と言いつつ書いているのだし、直後には「この罪の心には」信心深い人の言動がうっとうしく思われるということまで書いている。