本の覚書

本と語学のはなし

現成公案

 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
 仏道もとより豊倹を跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
 しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。(p.49)

 諸法(四大五蘊、十八界)が仏法である、その時節、そのままで迷いと悟りがあり、修行があり、生があり死があり、諸仏があり、衆生がある。
 万法(と言われるあらゆるものごと)すべてそれ自身一定したものはない、その時節、迷いもなく、さとりもなく、諸仏もなく衆生もなく、生もなく滅もない。
 仏で生きる生き方は、本来豊(あり)倹(なし)という相対の世界から跳び出ているのであるから、(その上で、)生と滅もあり、迷と悟もあり、衆生と仏もある。
 それはそういうことなのであるが、花が咲けば愛惜の心が起こるが、愛惜のまま花は散るのであり、草が生えれば棄て嫌う心が起こるが、嫌われながら草は生えるばかりである。


 たまには道元も読んでみる。75巻本『正法眼蔵』の最初に配置された「現成公案」の冒頭部分から。道元の文章の中でも、1番か2番目くらいに有名な箇所である。
 13世紀前半に書かれたものだけど、難しいのは仏教用語や禅の知識が要求され、かつ一般的な論理を超出した非常識な言説が披瀝されているからであって、そういうことを一旦括弧に入れれば、古典文法の知識など持ち合わせなくても容易に読める文章である。


 上の文章は、臨済的な解釈を施せば、修行をして悟りを開き、しばらく悟りにとどまった後、再びこの世へと戻り、悟りの臭みを掃き清めて、最後には凡人と区別のつかぬようなところに至りつくという十牛図的な過程を説明したものということになるだろう。
 そういう美しい世界が好きな人には耳障りかもしれないが、一応春日祐芳の解釈も書き抜いておく。ちょっと長いが。

 諸法(諸仏の説いた行法、修法)こそが仏法であると信じ、修行を続けていくとき、その眼前に、迷い(修)と悟り(証)があり、修行があり、生(修)があり死(証)があり、諸仏(証するもの)があり、衆生(修するもの)がある。このような豊かな違いに彩られた、人の世のありのままの姿(万法、証の世界)が現成する(見えてくる)。
 しかし、このとき現成する万法(証の世界)は、ただ心に映っているからあるのではない、これまでの修行の現われである。このことに気づいたとき、そこにはもはや、惑いと悟りの違いはなく、諸仏と衆生、生と滅という違いもない。かくて、先に見た豊かな違いに彩られた万法(証)は、修行というわずか一つの、倹なるものに脱落する。
 とはいっても、仏道はそもそも、豊かな証の世界を見ているときと、修行のほかにはなにもない倹のときという、この二つの区別を超越しているものなのだから、修行を続けていくところに、生・滅・迷・悟、そして衆生と仏というような違いを見せる、豊かな証の世界は、確かにあるのだが、しかもなお、ここにいう証(豊)と修(倹)とは異なるものではない。この二つは、(祖師の言葉に語られているように)「証の華は、惜しまれながらもおのずから散り(修に脱落し)、また修行の草は、世人が好むものではないにしても、いつか大きく成長して、そこにかならず証の華を咲かせる(現成する)」、そのような関係になっているだけである。(だから、修証は一等なのだ)。(p.42-43)


 「万法(証の世界)は、ただ心に映っているからあるのではない、これまでの修行の現われである」というのは、心意識における悟りの否定であり、修行がそのまま悟りであるという、ある種共時的な主張である。春日は修証一等を用いた解釈を極限まで徹底する。したがって、道元の持つ重要な一面を無視し去っているきらいはあるものの、非常に明快ではある。