本の覚書

本と語学のはなし

カントの文体について


 ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫)から長い引用。

まずい文体といえば、カントほど非難されるべき哲学者はほかにあるまい。ことにカントがその前〔『純粋理性批判』以前〕にはもっとりっぱな文体で書いていたことを思いあわせると、なおさらのことである。(…)
 ところでなぜカントは『純粋理性批判』をあんな味気ない、ひからびた包装紙のような文体で書いたのだろうか? おそらく、デカルトライプニッツ、ヴォルフ流の数学的形式を拒否してしまったカントは恐れたのだろう。もしも軽快な、やさしい明るい文体で述べられたら、哲学はその威厳をいく分損ずるだろうと。だからカントは哲学にしゃちほこばった、抽象的な形式をあたえた。それは思想の低い階級には、とうていしたしめない冷たい形式である。カントは、きわめて下世話な、はっきりした表現をねらっていた当時の通俗哲学者とは自分をいばって区別しようとして、自分の思想を宮廷くさい、冷えきったお役所言葉でよそおった。この点にカントの俗物根性が、はっきりあらわれている。けれどもまた一面から見れば、カントは自分の丹念にきめられた精確な考え方をあらわすためには、やはり丹念にきめられた精確な言葉が必要だったのだろう。しかし、カントはそのために紋切り型のお役所言葉よりもすぐれた言葉はつくり出せなかった。天才だけがあたらしい思想に、あたらしい言葉をあたえる。ところが、イマヌエル・カントはけっして天才ではなかった。(…)
 カントはその主著のおもくるしい、しゃちほこばった文体で、おそろしい大損害をひきおこした。頭はからっぽの真似ずきがカントのこの文体だけを猿まねしたので、ドイツでは「よい文章を書く者は哲学者ではない」という迷信ができてしまったのである。しかし、あの数学的形式はカント以降は哲学では用いられなくなった。カントは『純粋理性批判』でこの数学的形式に、きわめて無慈悲に死罪をいいわたした。(…) (168-170頁)


 ハイネっていうのは、もちろん「秋を愛する人は心深き人、愛を語るハイネのような僕の恋人」と「四季の歌」に歌われた、あのハイネのことである。ハイネが語るのは愛だけではないのだ。こんな饒舌にカントの文体をけなす僕の恋人も、なかなか乙じゃないだろうか。*1

*1:「四季の歌」の全歌詞は以下の通り。「春を愛する人は心清き人、すみれの花のようなぼくの友だち。夏を愛する人は心強き人、岩をくだく波のようなぼくの父親。秋を愛する人は心深き人、愛を語るハイネのようなぼくの恋人。冬を愛する人は心広き人、根雪をとかす大地のようなぼくの母親」。