本の覚書

本と語学のはなし

【フランス語】文体をわざとくずしておきながら【エセー1.40/39】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第40章(第39章)「キケロに関する考察」を読了する。
 モンテーニュキケロの完成された修辞に重きを置かない。重要なのは内容である。そこから、自身の文体について語り始める。なかなか興味深い自己分析である。
 なお、1595年版の第40章は従来の第14章にあたる(既に読んでいる)。したがって、次の第41章からは従来の章番号と1595年版のそれとが一致する。


J'ay veu de mon temps, en plus forts termes, des personnages qui tiroient d'escrire et leurs titres et leur vocation desadvouer leur apprentissage, corrompre leur plume et affecter l'ignorance de qualité si vulgaire et que nostre peuple tient ne se rencontrer guere en mains sçavantes: se recommandant par meilleures qualitez. (p.250)

もっと極端な例をいうと、わたしの時代に、ものを書くことを仕事にしていて、それで地位も得ている人が、自分の修行の成果を否定して、文体をわざとくずしておきながら、人々が、昨今の学者にはあまり見かけないという、この通俗的な文体などはわれ関せずといった風を装っているのを、目にしたことがある。彼らは、もっと別の長所で評判になりたいと腐心していたのだ。(p.158)

 何を言っているのかよく分からないかもしれないが、モンテーニュの原文が分かりにくいのだから仕方がない。ただ、翻訳上の問題もあるかもしれないので指摘しておくと、最初の「人」は、原文では複数である。次の「人々」は世間の人々のことで、最初の「人」とは異なる。「彼ら」が指すのは、最初の「人」である。
 解釈も一様でない。他の邦訳を見てみよう。


もっともはなはだしい例としては、現代において、字のうまいことで肩書と地位を得ている人々が、字の修行をしたことを否定し、わざと書体を崩して、当今ではあまりに通俗的となり、学識のある人の間ではほとんどないといわれるこの能書という長所に無能なふりをして、ほかのもっとすぐれた長所によって自分の価値を現わそうとするのを見たことがある。(p.72-73)

 Plumeはペンのことである。原二郎は能筆の話として訳している。


わたしは当代においても(これは非常に極端な話であるが)、書くことでは自他ともにゆるす人たちが、自分はそういう修行などはしたことがないと言ったり、ことさらに文章を稚拙にし、きわめて平凡な手法さえ知らないかのように装ったりして、世間の人からは練達の人にしては珍しいことだと不思議がられているのを、見たことがある。つまり、その人は、もっと高い特質によって自分をあらわそうとしたのである。(p.266)

 Plumeには文筆の意味もある。関根秀雄は文体の話として訳している。
 この部分に関根が付けている注釈を、そっくり書き抜いておく。

ここの原文はあまり明瞭ではない。ミショー将軍は彼のいわゆる〈self-édition〉の中で、それを筆跡書体に関することとしてパラフレーズしているが、オーギュスト・サルは文章著作に関することと解釈している。もちろんこの方が、モンテーニュが常に一介の文筆家として扱われることを嫌い、ひとりのジャンティヨムをもって自ら任じていた事実と照応するし、つづく(c)の加筆以降、末尾の書簡文に関する感想に照らして考えても、これが文章著作に関するモンテーニュの弁明でも抱負でもあることは明らかである。モンテーニュは後年自ら『随想録』の著者たることに徹するが、それまでの相当長い間、むしろ自らジャンティヨムたることの方を誇りとし、しばしばここにおけるように、さも他人事のように、自分の著作文章について語った。本章はその数ある例の中の一例である。彼は言論文章の人であるよりも、実行家であり、王政の扶翼者であることを、朝臣たる自分の理想としていたからである。(p.266-7)

 モンテーニュが見た人々というのは、実はモンテーニュ自身のことだというのである。


 話は変わる。
 昨日また歩いてハローワークに行き、パートの仕事を紹介してもらった。既に一人不採用となり、今一人は選考中だという。私に望みはありそうにない。
 仮に採用されたとする。働くのは6時間である。この仕事だけで経済的にやりくりできるのか、大いなる挑戦である。