本の覚書

本と語学のはなし

【ギリシア語】あなたが知を愛する者となれば【徳と悪徳】

 非常に短いプルタルコスの小品『徳と悪徳』を読み終えた。結びの文章を書き抜いておく。

οὐ βιώσῃ φιλοσοφήσας ἀηδῶς, ἀλλὰ πανταχοῦ ζῆν ἡδέως μαθήσῃ καὶ ἀπὸ πάντων: εὐφρανεῖ σε πλοὺτος πολλοὺς εὐεργετοῦντα καὶ πενία πολλὰ μὴ μεριμνῶντα καὶ δόξα τιμώμενον καὶ ἀδοξία μὴ φθονούμενον. (101C-E)

あなたが知を愛する者となれば、不愉快に生きることはなく、どこであっても、どんなものからでも、快く生きることを学ぶであろう。富は多くの人々に良きことをなすことによって喜びをあなたに与え、貧しさは多くのことを心配しないですむことによって喜びを、名声は誉れを与えられることによって喜びを、世に知られないことは妬まれないことによって喜びを、あなたに与えるであろう。(p.58)

 原文の最後につけた101Cとか101Eというのは、作品の番地のようなもので、これをたよりにすれば、容易に原典から引用箇所を探し出すことができる。
 『モラリア』は作品の集成全体に通しで番号が振られている。したがって、『徳と悪徳』の前の『運について』は100Aで終わっているし、次の『アポロニオスへの慰めの手紙』は101Fから始まる。


 翻訳を見ると、条件や理由の副文がたくさんあるのだろうと思うかもしれないが、これがギリシア語らしいところで、そのように見えるところは全て分詞で済ませている。
 たとえば最初の「あなたが知を愛する者となれば」というところは、原文では「φιλοσοφήσας」一語で表現されている。主語と同格に置かれたアオリスト分詞で、ここでは条件や仮定などを表す。「ピロソペーサース」は「フィロソフィーする」、すなわち「哲学する」ことである。
 「富は多くの人々に良きことをなすことによって喜びをあなたに与え」という文は、主語が「富」、動詞が「喜ばせる」、目的語が「あなたを」である(翻訳では日本語の表現に合わせて「富はあなたに喜びを与える」となっているが)。「多くの人々に良きことをなすことによって」の原文は「πολλοὺς εὐεργετοῦντα」であるが、これは目的語を伴った現在分詞で、「あなたを」と同格に置かれている。したがって、そのまま訳せば「富は、多くの人々に良きことをなすあなたを喜ばせる」となる。
 分詞にどのような含みがあるのかは、文脈や文法に応じて考えなくてはならないのである。


 哲学はしかめ面で行うものではなく、楽しいものなのだという思想は、モンテーニュにも受け継がれている。
 現在読んでいる『エセー』第1巻第26章(第25章)「子供たちの教育について」から、もう少し祝祭的な気分に満ちた一文を書き抜いておく。

子供に向かって、哲学を、しかめ面をして、気むずかしそうに眉をひそめた、こわい顔つきの、なんだか近寄りがたいものとして描き出すなど、とんでもないあやまちです。いったいだれが、哲学に、この青白くて、おぞましい、いつわりの顔をした仮面をかぶせてしまったのでしょうか? 本当は、これほど陽気で、元気いっぱいで、楽しくて、茶目っ気たっぷりのとまでいいたくなるようなものはないのです。哲学が説くのは、どれもこれも愉快な、お祭り気分なのです。(p.278)


 次に読むプルタルコスの作品は『運について』。
 これも比較的短いので、訓練のためにはよさそうだ。