本の覚書

本と語学のはなし

モンテーニュ全集8 モンテーニュ旅日記/モンテーニュ

 1580年6月から翌年11月にかけて17か月、モンテーニュはドイツ、スイス、イタリアに旅行した。これはその記録である。
 公表を考えていたわけではないから、備忘録のようなものである。費用がいくらかかったかとか、排出した結石の形状だとか、方々で立ち寄った温泉のことはやけに詳しい。庭園を見るのは好きだったらしいが、意外なことに、水の仕掛けに一番興味を持っているようである。
 イタリア・ルネサンスの美術にはほとんど言及がなくて、フィレンツェで見たミケランジェロにもほんの一言しか触れていない。ローマでは「ローマの研究に専心」(p.132) したとあるが、これは古代ローマのことである。そして、かつてのローマはほとんど足の下に埋もれていると考える。


 旅の理由には、隠密の使命があったのだとも考えられている。
 だが、ただ旅が好きだったのも事実である。目的のために旅をするのではなくて、ただ旅をすることがである。
 それに、こんなことも書かれている。

実際、彼の判断の中には、いくらか御自分の国を蔑視する感情がまじっていた。彼は御自分の国を別の諸理由から忌み嫌っておられた。(p.44)

 3人称で書かれているのは、ローマに至るまで記録を付けていたのが(全体の約半分)、モンテーニュの僕だったからである。理由は分からないが、彼はローマで暇を出される(p.140)。口述筆記だったかもしれないが、彼自身の観察も含まれる。それが案外おもしろい。実はモンテーニュ自身が僕を装って書いたのではないかと想像する人もある。


 モンテーニュ自身が書いた部分の半分以上はイタリア語である。

これから少し、この国の言葉をしゃべって見ることにしよう。今とくにわたしは最も純粋なトスカーナ語が語られているらしい地方を、とりわけ近郷の訛りによって少しもそれを汚さなかったトスカーナ人たちの間を、旅しているのであるから。(p.212)

Assagiamo di parlar un poco questa altra lingua, massime essendo in queste contrade dove mi pare sentire il più perfetto favellare della Toscana, particolarmente tra li paesani che non l’hanno mescolato con li vicini.

 ダンテが『神曲』を書いたのもトスカナ語であって、これが現在のイタリア語の元になった言われている。
 そして、フランス語圏に戻るところで、再びフランス語での記述が始まる。

ここではフランス語が語られている。それで今までの外国語とおわかれする。わたしはこの外国語をやすやすと使ってきたが、かなり好い加減なものである。それは、始終フランス人と一緒にいたので、勉強らしい勉強もできなかったからである。(p.290)

Ici on parle Francés ; einsi je quite ce langage étrangier, duquel je me sert facilemant, mais bien mal assuréemant, n’aïant eu loisir, pour etre tousjour en compagnie de François, de faire nul aprentissage qui vaille.

 イタリア語が進歩しなかったことは、ルッカ滞在中にも言われている。

わたしはふと、フィレンツェの言葉を勉強し、本格的に学んで見る気になった。わたしはそれに相当の時間と努力を費やしたが、大して進歩しなかった。(p.255)

Mi venne un capriccio d’imparare con studi et arte, la lingua Fiorentina. Ci metteva assai tempo, e sollecitudine : ma me ne veniva fatto pochissimo utile.


 ローマではヴァチカン文庫を見ることができた。フランスの大使がどれほどお世辞を使っても許されなかったことが、モンテーニュには許されたのである。しかも、彼は自由にいつでも拝観できたのである。

手稿本もたくさんあり、とくにセネカのが一冊、それからプルタルコスの「小品集」があった。(p.143)

 これらは後世の写本であるが、トマス・アクィナスの本には自筆で訂正がほどこされていた。下手くそな文字であったという。また、ウェルギリウスの『アエネイス』に最初の4行が欠けているのを見て、これが後世の加筆であったことを確信した。*1


 だからといって、モンテーニュが正しいカトリックと考えられていたわけではない。

その日の夕方、わたしの『随想録エッセー』が帰って来た。教会の博士たちの意見に従い懲戒を受けて。(p.152)

 ローマに持ち込んだ『エセー』が一旦没収され、検閲を受けたのである。訂正は彼の良心に任せられた。しかし、その後ほとんど訂正はされていない。
 ちなみに、1676年、『エセー』はヴァチカンの禁書目録に入れられる。しかし、これは神学的な理由ではなく、猥褻であるからということらしい。


 長くなったので、この辺で。
 前回書いたことと重複していることもあるが、していないこともある。前回書いたので、今回は書かなかったこともある。

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*1:現在のテキストでは一般に削除されている。泉井久之助は「作者の定稿以前の試作の時のものと思われる」と書いている(『アエネイス(上)』、岩波文庫、p.10)。