本の覚書

本と語学のはなし

【フランス語】同じ長柄につないだ二頭の馬【エセー1.26/25】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第26章(第25章)「子供たちの教育について」より。

[A] Et, comme dict Platon, il ne faut pas les dresser l'un sans l'autre, mais les conduire également, comme une couple de chevaux attelez à mesme timon. [C] Et, à l'ouir, semble il pas prester plus de temps et plus de sollicitude aux exercices du corps, et estimer que l'esprit s'en exerce quant et quant, et non au rebours. (p.165)

プラトンが述べたように、片方だけを訓練するのはだめで、同じ長柄につないだ二頭の馬のように、精神と肉体を同様に導いていくべきなのです。しかも、プラトンの発言を聞いていると、「肉体の運動に、より多くの時間と配慮を注ぐように。そうすれば精神もいっしょに鍛錬されるのであり、その逆ではない」と考えていたように思えてきませんか?(p.287)

 『エセー』のテキストには、ふつうAとかCとかの記号が挿入されている(宮下の翻訳にはない)。モンテーニュは自分の文章にしばしば手を加え、削除することはまれであったが、追加することは山のようにあった。記号は書き込みの時期が分かるよう後に便宜的に導入されたもので、モンテーニュ自身の発案ではない。


 引用した文章の前半部分、すなわちA(1580年版テキスト)の部分は、プルタルコスの『健康のしるべ』137Eによっていると、ヴィレは指摘する。

プラトンが、魂をともなわないで身体を、身体をともなわないで魂を動かしてはならず、いわばその一対の間に均衡を注意深く守らねばならないと勧告したのは正しい。(p.167)

 モンテーニュが二頭立ての馬のことを言っているから元は『パイドロス』だろうかと思ったが(たぶんその影響はあるだろう)、プルタルコスの方の注を見ると、これは『ティマイオス』88Bであるらしい。


 C(1588年版以降の書き込み)の方の文章は、『法律』7巻の諸処から帰結されているそうだ。ヴィレの注を書き抜いておく。

Montaigne, qui après 1588 lit Platon, parle maintenant non plus, comme précédemment d’après Plutarque, mais d’après Platon lui-même.

 モンテーニュは1588年以降プラトンを読むようになった。以前はプルタルコスを通じてプラトンを語ったが、これ以降は(すなわちCの時代)直接プラトンに当たって(ラテン語訳ではあるが)語るようになったのである。


 プルタルコスセネカの原典講読をする上で、私にとって一番のネックは、お金がかかりすぎることだ。
 ギリシア語に関してはプラトンでもいいのかと、今日の箇所を読みつつ思う。ロウブ叢書のプラトンは全部持っている。翻訳の全集は比較的安く入手できる。これまでにギリシア、ローマを通じて最も原典で読んだ分量が多いのは、おそらくプラトンである。
 学生時代に『ソクラテスの弁明』『クリトン』『エウチュプロン』『パイドン』を読んだことは記憶している。まどろっこしい文章はあるけれど、割と読みやすいのだ。
 求人に応募した。以前登録した派遣会社のものである。だが、この求人、まだ確定ではないと言われた。本人が退職の意思を示しているのか、派遣先から難色を示されたのか知らないが、直ぐに代わりが見つかるのかどうか探りを入れるための求人のようだ。仮にここで決まれば、生活の質は維持できそうだし、金銭的にもなんとかやっていけるだろう。
 プルタルコスを継続するのか、プラトンに変更するのか、それとも聖書に戻るのか。次の職によって、大いに左右されそうに思う。