本の覚書

本と語学のはなし

ギリシア文学を学ぶ人のために/松本仁助・岡道男・中務哲郎編

 プラトンは詩を排斥しようとしたが、彼の哲学を学んだプルタルコスは大の文芸好きである。その著作の至るところに、哲学のみならず、叙事詩、叙情詩、悲劇、喜劇、弁論などの引用をちりばめる。
 『モラリア』の2番目に置かれた(自分で配置したわけではない)『どのようにして若者は詩を学ぶべきか』という論考では、誤った論理や悪い手本をも徳の向上に役立てるべきことを説いて、なんとか哲学の世界においても詩の市民権を確保してやろうと奮闘するのである。
 したがって、プルタルコスを読むには、哲学や歴史の他に、文学史の概要をもつかんでおく必要がある。しかも、彼はローマ時代の人だから(彼が生きたのは46年頃から120年頃。セネカよりも後輩である)、ヘレニズム期もおさえておかなくてはならない。


 この本では、もちろんプルタルコスも紹介されている。『モラリア』の解説を書き抜いておく。執筆しているのは柳沼重剛。この人は『モラリア』中の好篇を翻訳して、岩波文庫から出していた人である。

これらのうち、(3)〔哲学論文〕・(4)〔宗教関係〕・(5)〔自然学関係〕には、哲学的観点から重要視されているエッセイが多く、いささか専門家向きの趣があるが、ほかのものはどんな素人にもおもしろく読める。その魅力は、プルータルコスが温かく、それでいて鋭い眼で人間を観察したり読者に忠告を与えたりしている点にあって、モンテーニュが魅せられたのもまさにこの点だった。峻厳な道徳観とか、思いを一点にこらしての沈思瞑想、哲学体系の構築などということには無縁(だから彼には深みがない、と言いたい人は言う)な代わり、プルータルコスの眼は人間世界にくまなく行きわたり、そのうえ人間のみじめさ、滑稽さを知っている。そこで彼は教える。なんとか人間をそういうみじめさ、滑稽さから救おうとする。しかし彼が示す救いの手だても、何か特別な、これさえつかめば、というようなものではなく、人間の常識というほかないようなもので、その常識をしっかり身につけておけというのが、彼の教えのエッセンスである。(p.282-283)


 ちなみに、セネカはあまり文学には触れない。彼が詩人と言うときには、ほとんどオウィディウスウェルギリウスに限られるようである。だからといって文学嫌いであったというわけではない。彼の手になる優れた悲劇が残されている。
 セネカを読むだけなら、ラテン文学を学ぶ必要はなさそうに思われる。
 だが、モンテーニュを読むには、それが必要なのである。彼もまたプルタルコスのように、ローマの詩人たちの言葉を、その著作の至るところにちりばめるのである。