本の覚書

本と語学のはなし

【ラテン語】不幸が軽くすむように【神慮について】

Hos itaque deus quos probat, quos amat, indurat, recognoscit, exercet ; eos autem quibus indulgere videtur, quibus parcere, molles venturis malis servat. Erratis enim, si quem iudicatis exceptum. Veniet et ad illum diu felicem sua portio ; quisquis videtur dimissus esse, dilatus est. (4.7)

神も同じように、その嘉し愛する人々を、かえって厳しくし、吟味し、錬磨する。しかし、神が恵みを垂れ、大切にしていると思われる人々には、神は今後の不幸が軽くすむように監視している。不幸を免れる者があると思うのは、間違いだからである。長い間幸福であった者にも、その負うべき分け前はいずれ到来するであろう。一見放免されたかに見えても、実は彼も刑の執行を猶予されたに過ぎない。(p.205)

 翻訳を読んでいて、うまく意味が通じないと感じた場合、我々の思考が追いついていないのかもしれないし、著者が意図的に通常の思考を逸脱しているのかもしれない。
 しかし、案外そういうところは、ただの誤訳かもしれないのである。


 引用したところの最初で、神は愛する人々にかえって厳しくするとある。
 次の「神が恵みを垂れ、大切にしていると思われる人々」とは、どういう人たちのことを言うのであろうか。翻訳だけ見ると、神が「嘉し愛する人々」と何ら変わりはないように思われる。ところがこの人たちは、現在厳しい仕打ちを受けていないどころか、将来の不幸にもほとんど影響を受けないだろうという。不幸を免れる者はいないということを示すためだけに、申し訳程度の災難を予定していると言うかのようだ。
 翻訳を読むだけでも、おそらく誤訳だろうと分かる箇所である。

eos autem quibus indulgere videtur, quibus parcere, molles venturis malis servat.

しかし、神が恵みを垂れ、大切にしていると思われる人々には、神は今後の不幸が軽くすむように監視している。

 「神が恵みを垂れ、大切にしていると思われる人々」は、神が「嘉し愛する人々」と明瞭に対置された人々のことである。videturは「~と思われる」ということであるが、わざわざこの語が添えられているのは、過度の幸福に浸って、どう見ても神の加護があるようにしか見えないということを言っている。
 「神は今後の不幸が軽くすむように監視している」という部分は、どう解釈してもそのような意味にはならない。主語が神であるのはよい。動詞はservat。確かに「監視する」という意味もあるが、ここでは英語で言えば第3文型ではなく、第5文型の動詞にあたる。目的語がeos(彼ら)で、補語がmolles(柔弱な)。何に対して無力であるようにされるのかといえば、venturis malis(きたるべき不幸)なのである。
 一見神に愛されているように見える(過度の幸福を享受する)人たちは、それによって甘やかされ、必ず訪れる将来の不幸にはなすすべを知らない。神はそのようにはからっているのだ。

Those, however, whom he seems to favour, whom he seems to spare, he is really keeping soft against ills to come.

 英訳を見ても、決して不幸がソフトになるなどとは言っていない。


 今は幸福に見えても、必ず不幸はやってくる。それゆえ、不幸を免れる人がいるなどと考えてはならない。
 「一見放免されたかに見えても」というところで、またvideturが使われている。先ほどと全く同じ用法である。先ほども同じように訳したらよかったのだ。一見放免されたかに見えて、猶予を受けているだけというのは、上の文章を言い換えただけのことだ。
 翻訳に誤訳はつきものかも知れないが、なぜこの箇所で誤訳をしてしまったのかは、語学的にも、論理的にも、理解できない。


 それとも、ラテン語のmollesや英語のsoftを、柳の枝のごとく、嵐をも受け流すことができるしなやかさのこととイメージしたのだろうか。
 語学的にはいくぶんよいかも知れないが、いずれにしろ間違っている。