本の覚書

本と語学のはなし

【ラテン語】翻訳問題【神慮について】

 セネカ『神慮について』3.10より。

Mero se licet sopiat et aquarum fragoribus avocet et mille voluptatibus mentem anxiam fallat, tam vigilabit in pluma quam ille in cruce ; sed illi solacium est pro honesto dura tolerare et ad causam a patientia respicit, hunc voluptatibus marcidum et felicitate nimia laborantem magis his quae patitur vexat causa patiendi. (3.10)

たとえ彼が強い酒で自分を眠らせようとし、騒がしい水音に気持ちをそらせ、また幾多の快楽によって不安な気持ちを欺こうとも、なおかつ羽毛の床のなかで、拷問にかかった人のように、眠れずに過ごすであろう。しかし、かの人レグルスには、徳義のために苛酷に耐える慰めがあり、実際に苦しんでいることからその原因を見返る。しかるに、この人マエケナスは、快楽に疲れ切り、過度の幸福に苦労しているのだから、彼を現に悩ませているのは、実際に彼を苦しめる事柄ではなく、むしろ苦しむことに原因がそうさせるのである。(p.200)

 ウェルギリウスを休止して、セネカを始めてから3週間になる。
 以前にも『神慮について』を途中まで読んだことがある。学生時代だったのか、社会人になってから今回以前にモンテーニュが気になった時だったのか、はっきりしない。いずれにしろ、今読んでいるところよりも遙か前にやめている。ひょっとしたら、今が一番古典語が読めているのかもしれない。
 モンテーニュを仲立ちとして、過去に挫折し、遠ざかっていた古典と和解する。始めてみれば、こういうことこそやりたかったのではないかと、今さらながら思うのである。
 もし第2外国語にフランス語を選択していたら、あるいは西洋哲学を専攻して古代哲学を学んでいたら、と想像もしてみるが、まあ語学の才能がないのだから大成のしようもなかった。それに、ギリシア哲学の教授はにやけた助平爺のようだったから、どのみち上手くはやっていけなかっただろう。
 だが、ありがたいことに、語学は才能がなくても続けさえすればそこそこ身につくのである。もう少し時間をかけて、モンテーニュセネカプルタルコスの3者を学ぶことはできないだろうかというのが、現在のささやかな願いであるが、仕事を始めてしまえば続けられるかどうか分からない。


 さて、セネカについて。
 残念ながら、茂手木元蔵訳は良質とは言えない。こなれていなくて、分かりにくい。英訳をそのまま訳しているのではないかというところもあり、その英語を誤解しているのではないかというところもある。
 引用したところは、徳のある人には逆境が降りかかろうとも、そのために不幸であると言うことはできないということを示すために、幾人かの例を挙げる中で、レグルスに言及した後、これと比較するためにマエケナスを持ち出したところ。
 レグルスはポエニ戦争中、カルタゴに捉えられ、逃亡しないという条件の下にローマに送られ交渉の使者となる。だが、彼は祖国にカルタゴの条件を拒否するよう勧告し、再びカルタゴに戻って拷問を受け、死ぬのである。
 マエケナスウェルギリウスホラティウスパトロンとなった人である。

tam vigilabit in pluma quam ille in cruce ;

なおかつ羽毛の床のなかで、拷問にかかった人のように、眠れずに過ごすであろう。

 一般的に「拷問にかかった人」のことを言っているように見えるが、原文にはilleという言葉がある。「あの(人)」ということである。次の文に対置されたilleとhicが「前者」と「後者」を意味するように、ここではilleは具体的にレグルスのことを指している。

yet he, upon his bed of down, will no more close his eyes than that other upon his cross.

 英訳を見ると、ちゃんとilleをthat otherと訳している。

sed illi solacium est pro honesto dura tolerare et ad causam a patientia respicit, hunc voluptatibus marcidum et felicitate nimia laborantem magis his quae patitur vexat causa patiendi.

しかし、かの人レグルスには、徳義のために苛酷に耐える慰めがあり、実際に苦しんでいることからその原因を見返る。しかるに、この人マエケナスは、快楽に疲れ切り、過度の幸福に苦労しているのだから、彼を現に悩ませているのは、実際に彼を苦しめる事柄ではなく、むしろ苦しむことの原因がそうさせるのである。

 セネカは同じcausaという言葉を使い、茂手木は同じ「原因」という訳語を当てる。英訳ではどうなっているかというと。

But while the one, consoled by the thought that he is suffering hardship for the sake of right, turns his eyes from his suffering to its cause, the other, jaded with pleasures and struggling with too much good fortune, is harassed less by what he suffers than by the reason for his suffering.

 多分こういうことだろう。
 前者(レグルス)にとっては、徳のために苛酷な拷問を受けるのはむしろ慰めであり、彼の眼差しは受難からその原因たる「大義」へと向かう。
 後者(マエケナス)は快楽に萎え、過度の幸運にもがいているのであり、彼を悩ますのは彼が被っている苦痛などではなくて、その苦痛の「原因」である。
 両者に使われるpati(苦しむ、被る)という動詞にも自ずと濃淡の違いがあるだろう。マエケナスの苦痛などはそもそも苦痛の内には入らず、人を悩ますにも足りない。ただその悪しき原因を取り除きなさいと言ってるかのようである。