本の覚書

本と語学のはなし

【ギリシア語】家柄が立派でないと【子供の教育】

τοῖς γὰρ μητρόθεν ἢ πατρόθεν οὐκ εὖ γεγονόσιν ἀνεξάλειπτα παρακολουθεῖ τὰ τῆς δυσγενείας ὀνείδη παρὰ πάντα τὸν βίον καὶ πρόχειρα τοῖς ἐλέγχειν καὶ λοιδορεῖσθαι βουλομένοις. καὶ σοφὸς ἦν ἄρ᾽ ὁ ποιητὴς ὅς φησιν


  ὅταν δὲ κρηπὶς μὴ καταβληθῇ γένους
  ὀρθῶς, ἀνάγκη δυστυχεῖν τοὺς ἐκγόνους. (1B)

なぜなら、母方であれ父方であれ、その家柄が立派でないと、低い出自がもたらす消しがたい不名誉な汚点が一生涯つきまとい、あら捜しや侮辱をしようとする者たちの格好の材料にされてしまうからです。すると、次のように語る詩人は実に賢明でした。


  一家の礎を正しく据えないならば、
  子孫が不幸に遭うは必定。(p.4)

 ラテン語ウェルギリウスを休止し、セネカを始めたように、ギリシア語でもホメロスを一旦やめて、プルタルコスを試し読みしてみることにした。
 「モラリア(倫理論集)」の最初に置かれている『子供の教育について』である。ところが、この作品、プルタルコスが書いたものではないらしい。子供の教育を考える前に、先ずはちゃんとした相手(遊女や妾ではなく)を選びましょうというところから説き始めるのだが、そこに注釈が付いている。

本作品はプルタルコスの真作ではなく、このような出自の低さへの非難は、プルタルコス自身の考え方には反しており、本書の『どのようにして若者は詩を学ぶべきか』28C-D、35Eにおいて批判される見解である。(p.5)

 実際、『どのようにして若者は詩を学ぶべきか』の35Eを見ると、次のような言葉が書かれている。

だから、ちょうど上着だけを鞭打つ人たちが身体には触れないように*1、何らかの不運や生まれの低さを非難する人たちは、外的な事柄に対して空しく無思慮に攻撃を加えているだけで、魂には触れず、真に矯正や辛辣さを必要とすることには少しも触れていないのである。(『どのようにして若者は詩を学ぶべきか』35E、p.126)

 最初に読む作品が本人の作でないというのはちょっと残念だし、あからさまに本人の見解とは違う所説が宣べられているとしたらそれも残念だけど、比較的短いので(翻訳で40ページほど)このまま続けようと思う。


 底本はロウブ叢書。私はLoebをずっとロエーブと表記してきた。学生時代に聞いたところでは、そう発音している人が多かったように記憶する。ネットではロエブとしているものもあるし、ローブとしているものもある。京都大学学術出版会西洋古典学叢書の凡例にはロウブとある。辞書で発音記号を確認してもその方がよさそうなので、私も今後はロウブと書くことにした。
 実はセネカを訳している茂手木元蔵もロウブを使っている。
 古典は写本で伝わるから、必ずしも正しい形が残されているとは限らない。異読がある場合には、校訂者によって本文が異なることもある。しかし、私も同じロウブで読むのだから、基本的には私の読んでいる文章を翻訳してくれているということになる。仮に翻訳が容易に理解できなかったとしても、違う本文を読んでいるせいではないということになる。これはけっこうありがたいことだ。


 モンテーニュを読む楽しみの一つは、古典からの引用や古代への言及にある。
 同じことは、プルタルコスにもセネカにも言えそうだ。冒頭の偽プルタルコスの文章にも、早速引用が一つ登場する。エウリピデスの悲劇『ヘラクレス』(1261)中のヘラクレスのセリフである。

*1:ペルシアで貴族を罰するのに、上着だけ鞭打ったことがあったらしい。