本の覚書

本と語学のはなし

【ラテン語】不幸が善き人々に【神慮について】

Quaesisti a me, Lucili, quid ita, si providentia mundus regeretur, multa bonis viris mala acciderent. Hoc commodius in contextu operis redderetur, cum praeesse universis providentiam probaremus et interesse nobis deum ; sed quoniam a toto particulam revelli placet et unam contradictionem manente lite integra solvere, faciam rem non difficilem, causam deorum agam.

ルキリウス君、君は私に次のように質問している――もし神慮によって世界が支配されているならば、一体どうして多くの不幸が善き人々に生ずるのか――と。このことを一層適切に答えるには、次の証明を行うときに一緒にしたほうが良いであろう。つまり、神慮は宇宙を隈無く支配し、従って神はわれわれのうちにも存在する、という証明である。しかし、全体から部分を切り離すことも良いことに思われるし、また全体の論争が未解決のうちに、単一の問題点を解決することも良いことと思われる。そこで、私はそれをしようと思うが、そう難しいことではない。神々について私の言い分を申し立てよう。(p.187)

 暑さのために詩が読めなくなってしまったのか、モンテーニュのよりよき理解のためにという口実のもとに、セネカを試し読みしてみることにした。
 『神慮について』(現在は岩波文庫の翻訳も新しいものに置き換わっており、新訳では『摂理について』となっている)を選んだ理由は3つ。ロエーブの道徳論集第1巻の1番目に置かれていること、和訳を持っていること、短いこと(岩波文庫で約30ページ)。
 最後まで読み通すのか、そしてそのままセネカを読み続けるのかは分からない。ウェルギリウスの魔力が息を吹き返すかもしれない。


 引用は『神慮について』の冒頭部分である。弁神論(または神義論)的な疑問に答えるという内容であるようだ。
 翻訳についてこれだけで判断することはできないが、英訳をしっかり確認する方が安全ではあろう。たとえば、「神はわれわれのうちにも存在する」とあるのは、だいぶ誤解を招きかねない。原文のinteresseは「間にある」ということであるが、茂手木訳からは「内なる神」を読み込むことがありそうに思うのである。英訳では「God concerns himself with us」となっているし、兼利の新訳(ネット上の試し読みで確認した)でも「神がわれわれに関わりをもつ」となっている。
 最後の辺りも、多分セネカは法廷用語を使っているのだろうけど、和訳からはそんな感じはあまり伝わってこない。「神々についての私の言い分を申し立てよう」は、英訳では「I shall be pleading the cause of the gods.」であり、兼利訳も「神々の弁護を行おう」である。


 岩波文庫の新訳は、岩波書店から出版された「セネカ哲学全集」(全6巻)から取られたもののようだ。全集は今は古本でしか入手できないが、法外な値段が付いている。
 茂手木も同じ内容を一人で訳している(全3巻)。こちらの古本も高めであるけど、まだしも現実的な金額だ。
 つまり、セネカを読み続けるとしたら、茂手木訳と上手に付き合っていく必要がある訳で、『神慮について』はその呼吸を身に付けるための30ページでもある。