θωρῆξαί ἑ κέλευε κάρη κομόωντας Ἀχαιοὺς
πανσυδίῃ· νῦν γάρ κεν ἕλοι πόλιν εὐρυάγυιαν
Τρώων· οὐ γὰρ ἔτ᾽ ἀμφὶς Ὀλύμπια δώματ᾽ ἔχοντες
ἀθάνατοι φράζονται· ἐπέγναμψεν γὰρ ἅπαντας
Ἥρη λισσομένη, Τρώεσσι δὲ κήδε᾽ ἐφῆπται. (2.11-15)
髪長きアカイア人〔ギリシア人〕らに即刻合戦の用意をさせよと、アガメムノンに申し渡すのだ。今こそ道広きトロイエの町を陥すことができる、オリュンポスに住まう神々の間にも、もはや意見の相違はない、ヘレの切なる願いに神々はことごとく靡いて、トロイエ方の悲運はすでに定まったと申せ。(p.43)
これは『イリアス』第2歌の初めの方、ゼウスが惑わしの「夢」に命じて、アガメムノンを誑かそうとするところである。
θωρῆξαί σε κέλευσε κάρη κομόωντας Ἀχαιοὺς
πανσυδίῃ· νῦν γάρ κεν ἕλοις πόλιν εὐρυάγυιαν
Τρώων· οὐ γὰρ ἔτ᾽ ἀμφὶς Ὀλύμπια δώματ᾽ ἔχοντες
ἀθάνατοι φράζονται· ἐπέγναμψεν γὰρ ἅπαντας
Ἥρη λισσομένη, Τρώεσσι δὲ κήδε᾽ ἐφῆπται
ἐκ Διός· (2.28-33)
ゼウスは、髪長きアカイア人らに、即刻合戦の用意をさせよと、そなた命ぜられた。今こそそなたは道広きトロイエの町を陥すことができるであろう。オリュンポスに住まい給う神々の間には、もはや意見の相違はない、ヘレの切なる願いに神々はことごとく靡き、トロイエ方の悲運はゼウスの神慮によってすでに定まっている。(p.44)
10行ほど挟んで、ほとんど同じ言葉が出てくる。これはオネイロスがアガメムノンの夢に現れて、ゼウスの言葉をそっくり伝えているからだ。
原文の方は、日本語訳以上にそっくりである。前者はゼウスがオネイロスに対して話しているのであるから、オネイロスは2人称、アガメムノンが3人称で表され、後者はオネイロスがアガメムノンに対して話しているのであるから、アガメムノンは2人称、ゼウスが3人称になる。そして、前者ではオネイロスがアガメムノンに命じることになっているが、後者ではゼウスが命じたことになっている。
しかし、後者の最後に「ek Dios(ゼウスによって)」という付加がある以外、語順は一切変わっていないし、当然韻律も乱れてはいない。
変更点を挙げておく。
① he → se
アガメムノンの人称代名詞が(原文ではアガメムノンという固有名詞は出てこない)3人称から2人称に変化。
② keleue → keleuse
オネイロスに対する2人称の命令形が、ゼウスを主語とする3人称のアオリスト(過去時制の一種)に変化。つまり、ゼウスはオネイロスに対して、アガメムノンに命じろと言ったのだが、オネイロスはアガメムノンに対して、ゼウスが命じたのだと言っている。
ちなみに、初級文法を学ぶとき、過去時制は語頭にe-を付けると習う。ekeleuseが正しいのではないか、と思う人があるかも知れない。だが、ホメロスではそんな規則はほとんどないものと思った方がよい。
③ heloi → helois
「陥とす」の希求法という形であるが、前者は3人称、後者は2人称の語尾になっている。いずれもアガメムノンが主語であるからだ。
④ 後者のみ、最後に ek Dios を付加
トロイア陥落の運命を定めたのはゼウスであると、オネイロスは言うのである。
この場面に限らず、使者が言われたことをそっくりそのまま繰り返すのは、よく出てくる。
2つ疑問がある。1つは、ほとんど間をおかずに同じ言葉を繰り返すことに、文学としてどのような意味があったのだろうかということ。単に伝えたという事実を述べればよさそうなものである。たとえばアガメムノンが3人称から2人称に変わることで、まったく別の臨場感が演出されるものなのだろうか。オネイロスが加えたようなわずかな変更が、聴衆の興味をそそるものなのだろうか。
もう1つは、文字を日常的に使用することのなかった時代、使者というのはこのように逐語的に伝令することを期待され、またそれをすることが出来る者だったのだろうかということ。