本の覚書

本と語学のはなし

モンテーニュ全集5 モンテーニュ随想録5/モンテーニュ

 第2巻第13章から第37章までを収録する。これで第2巻は終了。現在の『エセー』は全3巻であるが、1580年版はここをもって完結したのである。
 最後はモンテーニュらしく、健康と多様性の賛歌となっている。ただ、彼が健康でありたいと願うのは、死を避けたいということではない。彼ほど死を意識して生きていた人はそういないのであって、そういう文章は至るところに見出される。
 例えば、今原典で読んでいる第1巻第20章「哲学するこのはいかに死すべきかを学ぶためであること」など、タイトルからして死を凝視し続けてきた思想家のそれである。死から目をそらさず、かといって過剰に恐れるでもなく、生きている内は健康でありたいというのが、平凡ながらモンテーニュの望みであった。
 だが、彼は結石を患っていた。当時は今よりもよほど重大な病気である。若い頃から死に向けて鍛錬はしていたが、結石を発症してますます死が身近になった。それがまた彼の死の思想に円熟の度合いを加えるのであろう。健康への渇望も、無理なものを是が非にでも手に入れたいということではなくて、不健康とも共存するさっぱりとした諦念を含むものである。


 第28章「何事にもその時あり」にはこんな文章が見える。

わたしの企てはもっとも長いものすら、今はのべて一年を超えない。わたしはただ生き終えることばかり思っている。あらゆる新規の希望や計画はやめ、わが去る場所ごとに永の別れを告げる。そして日ごとに自分の持っているものを手離す。(p.182)

 前回の通読の時にこの言葉に出会って以来、私も1年で1周できないようなものは、専門的に学ぼうとは思わなくなった。原文では今のところ無理だとしても、少なくとも翻訳では1年で全部読めるものでなくてはいけない。毎年それを重ねて徐々に高みを増していくことが出来たら理想的だ。すなわち、それが私にとってのモンテーニュとなったわけである。
 その他の勉強も基本的には同じことである。あまり重厚で全体が簡単には見えないものは、もう最初から遠慮する。だが、モンテーニュ以外のものは、モンテーニュの注釈のつもりである。明日中断しなくてはいけなくなったとしても、それはそれで仕方ない。


 第36章「最も優秀な人物について」では3人の名が挙げられる。ホメロスアレクサンドロスとエパメイノンダスである。
 ホメロスについてはちょっと意外な感じがする。ラテン語ほどにはギリシア語ができなかったせいもあるかも知れないが、そんなにホメロスの詩を愛好しているとは思われない。恐らくは当時の風潮に従ったまでだろうし、彼が愛するウェルギリウスホメロスに多くを負っていたと言われているためでもあろう。
 あるいは、むしろこの一文が書きたかったのかも知れない。

その一人はホメロスである。だがそれはアリストテレスとかヴァロとかが(ほんのこれはたとえであるが)、多分彼ほどには物知りでなかった、ということではない。ましてやヴェルギリウスが、その芸術においてさえ彼には比べることもできなかった、などということでは決してない。このへんのことは、彼らを両方ともに知っておられる方々のご判断に委せる。わたしはただ一方だけしか知らないのであるから、わたしがわずかに言いうることは、ミューズの神々さえこのローマの詩人にはかなわないだろうということだけである。(p.265-266)