本の覚書

本と語学のはなし

イリアス(下)/ホメロス

 アキレウスが戦線を離脱し、ギリシア方の形勢は不利になる。船陣まで迫られるに及んで、パトロクロスアキレウスの武具を借り、トロイエ方を押し返す。だが、彼はヘクトルに討ち取られる運命にあった。
 アキレウスアガメムノンへの怒りを収め、戦闘に復活してトロイエ方を城壁の中へと押し戻し、ヘクトルと一騎打ちをして引導を渡す。
 パトロクロスの葬儀のあとも、ヘクトルの死骸を塚の周りに引き回すアキレウスであったが、老王プリアモスが船陣へと赴き、遺体を引き取り、ようやくヘクトルの葬儀が行われる。
 『イリアス』の物語はここまでである。


 アキレウスが戦場に戻る前、アガメムノンは彼から奪ったブリセイスを返し、他にも様々な品を贈って、和解する。
 しかし、ブリセイスも元はアキレウスに落とされた町から奪われてきたのである。
 アキレウスの陣屋に戻されると、彼女はパトロクロスの亡骸を目にし、嘆いていう。

 「ああ、パトロクロス、哀れなわたしには誰よりも愛おしい方、私が陣屋を出た折お別れしたあなたはまだ生きておいでだったのに、今帰って来てお会いするのは、もはやこの世の人ではないあなた、一軍を率いる大将だったあなたが――。ああ、どうしてわたしにはこんなに不幸が次から次へと止めどもなく続いてくるのだろう。これまでにわたしは、父と母とがわたしを嫁がせてくれた夫が、城の前で鋭い刃で切り裂かれるのを見たし、それに三人の兄弟も――三人ともわたしと同じ母から生れ、わたしには大切な人たちばかりだったのに、みな悲運の日を迎えてしまった。俊足のアキレウスがわたしの夫を殺し、神の如きミュネスの城を滅ぼした時も、あなたはわたしが泣いているのを放っておこうとはなさらなかったし、いずれはアキレウスの正式な妻にしてやろう、船に乗せてプティエへ連れてゆき、ミュルミドネス一族の間で結婚の披露宴も開いてやろうと、何度もいって下さった、ですからいつも優しかったあなたを失って、いつまでも泣かずにはおられぬのです。」
 泣きながらこういうと、他の女たちもそれにつれて悲しみの声をあげたが、うわべはパトロクロスのため、実はそれぞれ己の不運をかこっての歎きであった。(第19巻第287行以下)

 ブリセイスが話し終えると、女たちも嘆いたが、パトロクロスを嘆いているように見せて、実は自分たちの不運をかこったのだという。ここに注釈が付いている。

古注はじめ多くの注釈者はこのように解している。そうではなくて、本当にパトロクロスのために泣いたのであるが、泣くにつれて、自分の不運を顧みて歎いた、とする説もあるが、訳者は前者の解に従った。

 後者の解をとるのは、たとえばロエーブ叢書のA. T. Murrayである。
 ここの原文(第301-302行)は次のようになっている。

ὣς ἔφατο κλαίουσ᾽, ἐπὶ δὲ στενάχοντο γυναῖκες
Πάτροκλον πρόφασιν, σφῶν δ᾽ αὐτῶν κήδε᾽ ἑκάστη.

 問題となるのはπρόφασινという言葉である。副詞として使われる対格で、大体は悪い意味で「単なる口実として」とか「表向きは」ということを表す。
 見かけ上の儀礼的な嘆きが真の感情を引き出すこともあるだろうし、さらにはそれが個人的な悲しみにまで波及することもあるかも知れない。だが、ホメロスに裏表のある感情は不似合いとして、直情的なものしか認めないという必要もなさそうに思われる。