「怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウスの」と始まる。主題はアキレウスの怒りである。戦争開始から9年目、アキレウスが総帥アガメムノンに怒りを発して戦いから身を引き、やがて親友パトロクロスが戦死するに及んで、弔いのため戦さに戻り、敵方の大将ヘクトルを討ち取って怒りを収めるという、最終盤50日程度の物語である。
口頭詩の伝統の中から、一人の大胆な天才によって構想されたと考えられている(『イリアス』の作者と『オデュッセイア』の作者が同一であるか否かは、また別の問題である)。西欧文学の嚆矢であり、かつその最高峰であるとも評価される。
私が詩において特に好むのは比喩である。詩における比喩は、状況を的確に分かりやすく表現するためだけにあるのではない。比喩が比喩になっていないこともあれば、わずかな共通点しかないように見えることもある。大小さまざまなチャンネルを使い、時にはワームホールによってワープするようでありつつ、それでも物語の世界と比喩の世界とが不思議に融合していくのである。
面白い例を一つだけ紹介しておく。トロイエ勢がギリシア方の陣地まで攻め寄せてきたときの攻防の様子である。
しかし、かくてもなおトロイエ方は、アカイア勢〔ギリシア勢〕を敗走せしめるには至らず、アカイア勢が一歩も譲らぬその有様は、日銭稼ぎの実直な女が、子らのために僅かばかりの手間賃を得るために、秤を手にして、両の皿に錘りと羊毛を載せ、持ち上げながら釣り合いをとろうとする――そのように両軍の戦いは均衡を保って互角のままに進んだ。(第12歌、p.390-391)