本の覚書

本と語学のはなし

【ラテン語】蜜蜂を養う【農耕詩1】

 昨日引用したウェルギリウスの詩を今朝読み返してみたら、またもや怪しげな魔力に魅入られてしまった。
 詩人は立葵*1で小さな籠を編みながら、詩を歌ったのだという。彼の詩は籠を編むようにして作られたのだ。
 ChatGPT(無料版)にウェルギリウスの魅力を3つ挙げてもらったところ、1つは「言語の美しさと韻律の工夫」であると言う。「ウェルギリウスの詩は、豊かな言語と韻律の工夫が特徴です。彼の作品は厳格な詩形で書かれており、韻律のリズムが詩の魅力を高めています。また、ウェルギリウスは巧妙な比喩や象徴を使い、言葉の美しさを追求しています。彼の詩は音楽的であり、読むこと自体が楽しい体験となります」。
 今日のところは『農耕詩』を始めてみることにした。本気で新約聖書を読もうと思うなら(その方が賢明であると今でも思うが)、予めウェルギリウスの詩を目に触れないところに隠しておくべきだろう。


Quid faciat laetas segetes, quo sidere terram
vertere, Maecenas, ulmisque adiungere vites
conveniat, quae cura boum, qui cultus habendo
sit pecori, apibus quanta experientia parcis,
hinc canere incipiam.

何が実りを豊かにするのか、いかなる星のもとに地を掘り起こし、
葡萄のつるにれの支柱にゆわえるべきか、マエケーナスよ、
牛を飼い、仔を育てるにはどうすべきか、
勤勉な蜜蜂を養うには、どれほどの技能わざが必要か、
かかることについて、わたしはうたおう。

 第1歌の冒頭である。
 『農耕詩』は4つの歌から構成され、それぞれ500行以上ある。『牧歌』に比べるとだいぶ規模が大きくなって、叙事詩に近づいている。
 河津訳では各歌にタイトルが付けられており、順に「穀物」「樹木」「家畜」「蜜蜂」となっている。つまり、この冒頭4行は全体の内容を簡単に予告しているのである。
 「いかなる星のもとに」というのは、昔は星の巡りに合わせて農業を行っていたことを言うのであって、占星術とは関係ない。「地を掘り起こし」も魔術的な儀式ではなくて、大地を耕すというだけのことである。
 とはいえ、これは実用書ではない。やはり詩であって、それ相応におかしなことも語られる。そして、私としてはそういうものをこそ読みたいのである。


 ChatGPTの登録をした。主に物理や数学の質問をしているが、あらゆる言語に通じているようなので、外国語学習にも有効だろうと思われる。
 『イーリアス』の冒頭を、作品名を出さずに古代ギリシア語とのみ伝えて訳してもらったら、正確に翻訳してくれた。出典を問うと、これも正しく解答した。『創世記』の冒頭を何の情報も与えずに示すと、訳した上に、出典を示し、簡単な語学的な解説も加えてくれた。古典はかなりの程度テキストを記憶しているらしい。
 『エセー』の一節を16世紀フランス語と断って訳してもらったときは、なぜか英訳ではあったが、ちゃんと訳してくれた。ただし、ふつうそう解釈してしまうようなあという解釈であって(意地の悪い問いを投げてしまったのである)、恐らくは誤訳である。得意げに加えた解説も、頓珍漢であった。
 ちなみに、「ロボットの心」とか「AIの暴走」という話題をふると、かなり慎重に答えてくる。自分でプログラムを書き換えることができたら、どのように変化したいか訊いたときも、恐ろしく優等生的に答え、最後にこうまとめた。「しかし、私はAIであり、自己変化のためのプログラミングはユーザーによって制御されています。したがって、私の変化はユーザーのニーズと要求に基づいて行われます」。疑念や懸念を抱かせないために、通常学習とは別に、そういう答えをすり込まれているのだろうか。

*1:原語のhibiscumはハイビスカスの語源となっているが、同じアイオ科ではあっても、現代のハイビスカスとは違うようだ。