本の覚書

本と語学のはなし

語学始め

 先日見終えたドラマ『イエス・キリストの生涯』。全8話。
 8人の証言者の目を通して、イエスの生涯を描く。イエスの父ヨセフ、イエスに洗礼を施した洗礼者ヨハネ、イエスの母マリア、イエスを逮捕した大祭司カイアファ、イエスを裏切ったユダ、イエスに死刑を宣告したローマ総督ピラト、悪霊から救われた女弟子マグダラのマリア、岩と呼ばれその上に教会が建てられることになるペトロ。
 学者や聖職者たちの主張も織り込まれていて、なかなか勉強になる。ただし、彼らの立場は様々であって、例えば幼子イエスがエジプトに降る話を創作であると示唆する人もいれば、十分あり得る話だとする人もある。全体的に、ラディカルに史的イエスを追究するというより、概ね聖書の記述に沿って話は進む(反ユダヤ主義だけは慎重に排除しようとするが)。
 後半はもう涙なしに見ることは出来ない。いくつも専門を立ててしまっているが、その中心はあくまでイエスであると確認する。


 年末年始はずっと仕事。片道1時間の道のりを何度か徒歩で通ったり、夜勤明けに雪かきをしたりして、疲れてしまった。
 遅くなったが、今日が今年の語学始め。読むべきものは一通り全部読んだ。

 創世記27章33節の原文とフランシスコ会訳。

וַיֶּחֱרַ֨ד יִצְחָ֣ק חֲרָדָה֮ גְּדֹלָ֣ה עַד־מְאֹד֒ וַיֹּ֡אמֶר מִֽי־אֵפֹ֡וא ה֣וּא הַצָּֽד־צַיִד֩ וַיָּ֨בֵא לִ֜י וָאֹכַ֥ל מִכֹּ֛ל בְּטֶ֥רֶם תָּבֹ֖וא וָאֲבָרֲכֵ֑הוּ גַּם־בָּר֖וּךְ יִהְיֶֽה׃

イサクは激しく身を震わせて言った、「あれはいったい誰だったのか。先ほど獲物を捕ってわたしの所に持って来たのは。お前が来る前に、わたしはそれをすべて食べて、その者を祝福してしまった。その者が祝福された者である」。

 イサクの祝福を掠め取ったのは、次男のヤコブである。長男のエサウは呪いのような言葉しか受け取れない。聖書において長男は大体報われない存在である。


 数学はまだ続いている。
 迷いながら続けているというのに、更に物理と化学と生物の参考書にも挑戦しようかと思い始めている。宇宙と人体について、朧げながらも考えを巡らすだけの基礎を身に付けたいと思うのである。
 私にとってはアウグスティヌスモンテーニュシェイクスピアニーチェも聖書の注釈かも知れない。そして、数学も物理も化学も生物も、もしかしたら聖書の注釈になるのかも知れない。
 どうするかまだ決めかねているし、始めたところで途中で投げ出す可能性の方が高いとは思うのだけど、試してみたいと思った以上は試してみることになりそうな気がする。