本の覚書

本と語学のはなし

新釈漢文大系第7巻 老子・荘子(上)/阿部吉雄・山本敏夫・市川安司・遠藤哲夫

内容

 『老子』全篇と『荘子』内篇を収める。
 『荘子』には他に外篇と雑篇があって、分量は内篇の3倍ほどになるが、名前の示すとおり荘子思想の精髄は内篇にあるとされる。
 これ一冊読めば、老荘の入門としては充分だろう。


 だが、『荘子』の魅力はむしろ雑多な寓話にあるのかも知れない。
 内篇で止めるつもりだったが、つい外篇と雑篇を収める下巻も始めてしまった。

フォーマット

 テキストに幾つかの選択肢があるが、新釈漢文大系に決めた理由は以下の通り(比較で示したのは、他の『荘子』の場合である)。
 漢文の原文が載せられていること。森三樹三郎(中央公論社)の場合、読み下しのみである。
 漢文に返り点が付けられていること。金谷治岩波文庫)の場合、読点付きの白文である。持ってはいないけれど、池田知久(講談社学術文庫)も同様。返り点も解釈には違いないが、どのみち著者が訓むようにしか訓まないので、初めから補助を付けて貰えると有り難い。
 原文と読み下しが上下二段組みになっていて、対照しやすいこと。福永光司朝日出版社)の場合、返り点付きの原文の後に読み下し、その後に通釈も語釈も注釈も渾然一体になった解説が来る。訓じ方も読み解き方もやや個性的で、最初の一冊にするのはためらわれる。
 金谷の『論語』は原文と読み下しを上下で対照することが出来るのだけど、『荘子』は分量が多いせいか、前後に配置されている。池田に至っては、読み下しと原文の間に現代語訳が置かれているようで、対照の便を図ることはまったく考えられていない。
 素人にとっては、上下二段組というのはなかなか貴重なフォーマットなのである。

難解

 応帝王篇より。

汝又何帠以天下予之心


汝又何ぞ帠(げい)もて天下を治むるを以て予(われ)の心を感ぜしむるを為す

何だってきみは天下の政治などのたわごとで、わたしの心を動かそうとするのか。

 「帠」は私の持っている漢語辞典には載っていないので、本来どういう意味なのか知らない。新釈漢文大系の語釈によれば「たわごと」のこと。
 古くからこれを「為」の字に作ることも多かったが(「何為」ならば「なんすれぞ」となる)、そうしてみても下の部分とどう繋がるのか分かりにくい。いっそ、衍字(間違って入った余計な文字)と考えてはどうだろうと、新釈漢文大系は提唱する。


 福永は「何に帠(よ)りてか」、森は「何の帠(げい)ありて」と読み下す。いずれも「帠」は「法、方法」のことだと言う。
 ただし、前者はその後「天下を治むるを以て」としているから、全体として新釈と同じような解釈になるが、後者の訓みは「以て天下を治め」であり、全体の訳は「お前はまた何か得意な芸でもあって、それで天下を治めようとし、わしの心をゆり動かそうとするのか」となる。


 金谷は本文を書き換えて「何叚」とする。
 注釈に言う。

原文は「何帠」。『釈文』では「帠は藝の発音で法の意味」というが、根拠が明確でない。孫詒譲(そんいじょう)は「帠は叚の字の誤りで、古字の形が似ていたためだ」といい、王叔岷はそれに賛成して「叚は暇と同じ」とし、「何暇」の用例をあげて証明した。

 これにより、金谷は「何の叚(暇)(いとま)ありて」と訓む。意味として大きく変わるわけではないが、確かにすっきりとはするようだ。
 ただ、西洋古典学の本文批評には lectio difficior という原則があって、より難解な読みの方が元来のテキストである可能性が高いと考える。写本を書写する過程でよく分からない部分を合理的に解釈して「修正」することはあり得るが、その逆は単なるミスでない限りは起こりにくい。
 古字では似ていると言うが、果たして本当に「叚」を「帠」と書き間違えることがあるものだろうか。それとも学者たちが、「証明」の名の下に写本の書き換えられる瞬間を再現しているにすぎないのだろうか。

モンテーニュ荘子

 関根秀雄は荘子モンテーニュ最良の注釈とまで考えている。
 例えば『随想録』第3巻第1章「実利と誠実について」の注釈に言う。

《自然のうちには何一つとして無用なものはない。〔無用なことさえも無用ではない。〕Il n’y a rien d’inutile en nature; non pas l’inutilité même》というモンテーニュの言葉は、『荘子』の人間世篇の〈無用の用〉が意味するところと全く異なるところはない。


 人間世篇の「無用の用」というのは、材木として役に立たないから伐られることもなく巨大になった樹木の寓話のことを言うのだろう。だがこれは、それでも何か隠された用途があるなどということを言っているわけではない。
 世俗的な用途に使えないからこそ、社会の中で搾取されることなく、個として自由に生き、命を長らえることが出来るということである。用いる側から用いられる側へと、視点の転換が行われているのである。
 私にはどうしてもこの場合のモンテーニュ荘子の考えに一致するものがあるとは思えない。


 その他の点についても、関根が言うほどモンテーニュ荘子が瓜二つだとは信じることは出来ない。
 二人の類似について深く追求する必要は無い。