本の覚書

本と語学のはなし

【漢文】空の青々とした色は【荘子 逍遙遊篇】

野馬也、塵埃也、生物之以息相吹也。天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無至極邪。其視下也、亦若是則已矣。


野馬や、塵埃や、生物の息を以て相吹くなり。天の蒼蒼たる、其の正色か。其の遠くして至極する所無きか。其の下を視るや、亦是(かく)の若(ごと)くならんのみ。

(空に上るのは鵬ばかりではない)かげろうが立ち上り、ちりの舞い上るのは、すべて造物主が息を吹くからである。(地上から空を見あげるとき)空の青々とした色は、果たしてその本来の色なのだろうか、無限に遠いためなのだろうか。空から見おろすときも同じであろう。

 老子を終えて荘子に入った。
 老子の聖人は、何も為さず謙下することで、社会に安寧をもたらす為政者の理想である。
 荘子の真人は、高校時代に読んだ記憶を辿る限り、ほとんど社会的なところは無かったように思う。主客未分の境地に遊び、あらゆる束縛を逃れる解脱者のようなものでなかったろうか。


 今荘子を読み直そうとするのは、十代後半の幸せな読書をもう一度体験してみたいというばかりではない。
 関根秀雄の訳した『随想録』を読むと、あちらこちらに荘子との思想的類似を指摘する文章が挟まれている。『モンテーニュ逍遙』では「『荘子』は私にとっていつも『随想録』の評釈であり、『随想録』はいつも荘子の言葉を私に思いおこさせる」(p.139)と言っている。
 これに刺激を受けたのが半分、本当かしらんと訝る気持ちが半分である。いずれにしろ、自分で読んでみるよりほかない。


 関根はフランス語訳(ヴィジェとフゥエ)も読んでいるが、日本のものとしては森三樹三郎と福永光司と大浜晧を大いに買っているようだ。
 森と福永のものはもう持っている。大浜の解説書は早速注文した。英語かフランス語の翻訳も参考に持っていてもいいかも知れない。
 ただし、新釈漢文大系のフォーマットが私には見やすく便利でもあるので、これを基軸とすることには変わりない。森も福永も金谷も「生物」を単に「生き物」と考えているのに対して、市川のみが「造物主」と断言しているのを見ると、多少の不安もあるのだが。


【家庭菜園】
 25日、Cのキュウリ(購入苗)にうどんこ病が発生しているのを発見する。
 昨年は米ぬかやらストチュウやら重曹やらで対処できないかと試しているうちに、株全体に蔓延してしまった。今年は躊躇なく怪しげな葉っぱを全部切り取った。
 あとは小まめにストチュウを葉の両面に噴霧して予防するしかないだろうけど、既にはっきり分かる形で発症してしまったものはもう手遅れかもしれない。だからキュウリは嫌なのだ、ということを思い出した。


 26日、ポットにササゲの種を撒く。
 上手く育ってくれたら、来年はもうキュウリの直播き(もしくは苗作り)は行わないかも知れない。キュウリは嫌なのだ。


 昨年の手帳を見ると、去年の今頃はもうとっくにキュウリの収穫が始まっていたし、ゴーヤーは親づるの摘芯を行っていた。
 今年は気温が低かったせいか、肥料が少ないせいか、成長がゆっくりである。
 そう言えば、去年の定植の頃にはまだ化成肥料を使っていた。しかも量を大幅に間違えてしまったのだった。相当高濃度の養分が供給されていたはずである。
 最近は収穫に対する関心が薄れてきているので、成長が遅れたところであまり気にはならないのだが。