本の覚書

本と語学のはなし

リア王/ウィリアム・シェイクスピア

 中学生の時、学芸会のようなもので私の学年が『リア王』を演し物にしたことがある。
 なぜ『リア王』に決定したのか、その選考過程はもう忘れた。私が脚本を担当したのだが、こんな長大で壮大な物語を、どのように短縮してまとめたのか、どのような改変を行ったのか、それも全く記憶していない。
 単純で喜劇的なシナリオを用いた人たちの方が、よほど成功していた。『リア王』を舞台にのせることは不可能であるとまで考えたチャールズ・ラムのような人たちがいるというのに、学芸会で一体何が出来たというのだろうか(脚本を書くに当たっては、ラムの『シェイクスピア物語』を大いに参考にしたのだが)。
 はっきり(でもないが)記憶しているのは、三姉妹のうちの誰かを、多分コーディーリアではなく長姉のゴネリルか二番目のリーガンではないかと思うが、当時崇拝していたある女性が演じたと言うことだけである。
 そのせいでもないが、『リア王』は悲劇の中で私が最も愛する作品である。


 材源として数えられているわけではないが、『リア王』を読むとダニエル書のネブカドネツァルを思い出す。

 このことはすべて、ネブカドネツァル王の上に起こった。十二か月が過ぎたころのことである。王はバビロンの王宮の屋上を散歩しながら、こう言った。「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すものだ。」まだ言い終わらぬうちに、天から声が響いた。「ネブカドネツァル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた。お前は人間の社会から追放されて、野の獣と共に住み、牛のように草を食らい、七つの時を過ごすのだ。そうしてお前はついに、いと高き神こそが人間の王国を 支配する者で、神は御旨のままにそれをだれにでも与えるのだということを悟るであろう。」この言葉は直ちにネブカドネツァルの身に起こった。彼は人間の社会から追放され、牛のように草を食らい、その体は天の露にぬれ、その毛は鷲の羽のように、つめは鳥のつめのように生え伸びた。
 その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。(新共同訳、ダニエル書4:25-31a)

 『リア王』を不条理劇としてだけでなく、キリスト教的ないしは肯定的ヴィジョンのもとに見ることも可能だとすれば、ここにもそのヒントがあるかもしれない。