本の覚書

本と語学のはなし

イエス/ディベリウス

 久しぶりの読了。あまりゆっくり読みすぎたので、もう何が書いてあったのかさえ思い出せない。
 ディベリウスは様式史をリードした新約学の巨星であるが、今読んでみると、極力学者として書こうとはしているものの、信仰者としての信念も抑えがたく現れているような気がする。彼の描くイエスは、単に後の人々がそう信じてそのような衣をまとわせたというだけでなく、神の子として生きそして死んだ、自覚のあるメシアであったようだ。
 引用は線を引いた内から適当に選んだものを。

ここで語っている者〔ゲツセマネの場面を描く共観福音書記者〕は、イエスもまたかつては弱くなったことを客観的に認める中立的観察者ではない。いなここに語っている者は、主の歎きや訴えのうちに、旧約聖書に示されているごとき神の意志の確証を見るキリスト者なのである。イエスは、歎き訴えたにもかかわらずではなく、歎き訴えたがゆえに、神意の執行者なのである。(p.159)


 なんだか最近は英語とか時事的なこととかに偏りすぎている。
 キリスト教、特に新約学、それから英語以外の言語も、復活させたい。