本の覚書

本と語学のはなし

神の国

 先日読んだマタイの一節より。

ἀπὸ δὲ τῶν ἡμερῶν Ἰωάννου τοῦ βαπτιστοῦ ἕως ἄρτι ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται καὶ βιασταὶ ἁρπάζουσιν αὐτήν. (Mt 11:12)

バプテスマのヨハネの時より今に至るまで、天国は烈(はげ)しく攻めらる、烈しく攻むる者はこれを奪ふ。(マタ11:12、文語訳)

 これをどう解釈するべきだろうか。岩波聖書翻訳委員会訳では、「暴力的な者たち」(原語はβιασταί、文語訳の「烈しく攻むる者」)に関して2つの解釈を並列する。

 正確な意味の不明な言葉。「暴力的な者たち」を否定的にとれば、天の王国の運動に逆らう者たちからの迫害が意味されていよう。もし肯定的にとれば、天の王国に入ろうとしている者たちの、激しいまでの積極性を意味していよう。(1, p.137)

 いずれにしろ、イエスは天の国(あるいは天の王国、天国、神の国)の説教師であることは前提とされている。私自身もそれを疑ったことはなかった。

 ところがである。
 田川建三は「神の国」の預言者であろうとしたのは洗礼者ヨハネであって、イエスではないと断じている。びっくり仰天してしまった。

 この句は明瞭に、洗礼者ヨハネに対する批判である。洗礼者ヨハネをはじめとして、その支持者たち(ヨハネの弟子集団)、また似たような終末論的宗教運動や宗教思想を展開しようとする人たちに対して、彼らは自分たちの宗教運動の裏づけとして「神の国」を引き合いに出している。しかしそれはまさに、自分たちが勝手に考えた宗教思想でもって「神の国」なるものを奪い取ろうとする行為に他ならないではないか。それは「神の国」に対して暴力をふるい、それを自分たちの宗教運動の専売特許として、ないしそういった宗教思想でもって人々を縛りつけようとして、「神の国」を略取、簒奪する行為にほかならない、と。イエスの「神の国」についての発言は、常にこのように一歩距離を置いた皮肉な批判である。(1, p.665)

 こんなことは福音書記者たちにも理解できなかった。まして神学的な信じ込みを前提とする現代の我々には到底考えもつかないことであった。
 本当に整合性をもって主張できることなのかどうか。注意して聖書を読まなくてはならない。