本の覚書

本と語学のはなし

竹取物語/野口元大校注

 単にやさしそうだからという理由で始めた『竹取物語』だったが、実はけっこうタイムリーな読書だったようだ。映画を見に行くかどうか思案している。既に晴れ間のほとんど見えぬ季節に突入してしまったから、かなり億劫ではあるのだけど。

 竹取の翁が竹の中から三寸ばかりの女の子を取り出す。その子がすくすくと育ち、無二の美人となったので家の周りには一目見ようと男たちが集まってくる。しかし、かぐや姫は五人の求婚者に難題を吹っかけ、何とか結婚を逃れようとする。
 昔はこの辺りを読んで、ずいぶん意地の悪い話だと思った。かぐや姫は求婚者の失敗を笑い、ある者が命を落としても「すこしあはれ」と思うにすぎない。だが、この難題の部分というのは、月の人として世俗的な感情を持たなかったであろう伝承上のかぐや姫に、地上的な色彩をまとわせ、言葉遊びも加えつつ、作者が冒険をしているところだと思われる。その跡を見るべきだろう。

 五人の求婚が失敗に終わると、今度は帝に言い寄られるが、かぐや姫はいずれ月に帰らなくてはならない身であると告げて、これを断る。そして月に帰るまでの間を、泣き暮らすのである。

いますがりつる心ざしどもを思ひも知らで、まかりなむずることの、口惜しう侍りけり。長き契りのなかりければ、「ほどなくまかりぬべきなんめり」と思ふが、悲しく侍るなり。親たちのかへりみを、いささかだにつかうまつらで、まからむ途もやすくあるまじきに、日ごろも出て居て、今年ばかりの暇を申しつれど、さらに許されぬによりてなむ、かく思ひ嘆き侍る。御心をのみ惑はして去りなむことの悲しく、堪へがたく侍るなり。かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなむ。思ふこともなく侍るなり。さる所へまからむずるも、いみじくも侍らず。老い衰へ給へるさまを見たてまつらざらむこそ、悲しからめ (p.75-76)

 月に戻れば歳を取ることも、ものを思うこともなくなる。それよりは、この地上にいて両親の老い衰えるのを世話していきたいというのである。

 天人たちがやって来る。帝の軍勢も力が萎えて抗うことはできぬ。そして竹取の翁に宣告する。

汝、をさなき人。いささかなる功徳を、翁つくりけるによりて、汝が助けにとて、片時のほどとて、下ししを、そこらの年ごろ、そこらの黄金賜ひて、身を換へたるがごとくになりにたり。かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く。能はぬことなり。はや出したてまつれ (p.78)

 かぐや姫の罪が何であったのかは、どこにも言及されていない。そもそも「いとけうらに、老いをせず」、「思ふこともな」い月の人が、どうやって罪を犯しうるのかも分からない。「竹取物語 キリスト」で検索してこのブログに辿り着く例もあったので、そういう連想をする人もいるのだろう。映画ではどういう解釈を与えているのだろうか。

 天の羽衣を着てしまうと、かぐや姫からもう人間的な感情は失われ、百人ほどの天人を具して空に昇って行く。