本の覚書

本と語学のはなし

『ブヴァールとペキュシェ』


フロベールブヴァールとペキュシェ』(鈴木健郎訳、岩波文庫、全3冊)
 あらゆる知識を究め尽そうとする試みにおいてはファウスト的だが、何をやっても壁にぶち当たって中途半端に終わり、人間の愚かしさを暴露して終わるという点ではドン・キホーテ的。しかし、『ドン・キホーテ』を書物の中の書物として愛したフローベールにとっては、ボヴァリー夫人や『感情教育*1フレデリックがそうであったように、あるいはそれ以上に、ブヴァールとペキュシェの二人の偉大なる凡人はまさしくフローベールその人であったと思われる。
 教育の事業にも失敗した二人は、最初に生業としていた筆写へと回帰する。『紋切型辞典*2の解説を見ると(これは『ブヴァールとペキュシェ』の解説としても読まれるべきだ)、最終第12章の構想としてフローベールが考えていたのは、医師ヴォコルベイユが二人の行動と思想を要約し、無害な愚者として県知事に報告した手紙を、二人が偶然見つけ、それを筆写するというものだった。泣けてくる。


 翻訳が古すぎるのが惜しい。確かに文章が圧縮されすぎて、物語としての面白みには欠ける。やたらに固有名詞が振り回されて、知識を追うのに汲々としてしまいもする(『聖アントワヌの誘惑』*3もそうだったが)。揺れるバスの中や夜勤の合間に読むには到底向かないのだけれど、現代の言葉で訳し直され、簡潔で要を得た訳注が付されれば、己を隠した写実でも迸るロマンでもない、フローベールのもう一つの魅力が見直されることになるのではないだろうか。結構現代的な意義を持った作品ではないかと思うのだ。


 全集を買うお金はないので、『ブヴァールとペキュシェ』、『三つの物語』*4、『サランボー』の新訳が出ること、それから書簡集が文庫化されることを切に願う。

ブヴァールとペキュシェ (上) (岩波文庫)

ブヴァールとペキュシェ (上) (岩波文庫)

ブヴァールとペキュシェ (中) (岩波文庫)

ブヴァールとペキュシェ (中) (岩波文庫)

ブヴァールとペキュシェ (下) (岩波文庫)

ブヴァールとペキュシェ (下) (岩波文庫)