本の覚書

本と語学のはなし

「デイジー・ミラー」始めました


 再び英語に戻り、ヘンリー・ジェイムズの『デイジー・ミラー』を始める。参照する翻訳は、岩波文庫の行方昭夫のもの。
 最初の1ページは案外簡単だ。しかし、ヘンリー・ジェイムズの英語は難解だというのがもっぱらの評判である。これから頭を悩ます文も出てくるに違いない。
 例によって、冒頭部分を書き抜いておく。簡単な英文の割に、訳はずいぶん工夫を凝らしてある。行方訳は時々やりすぎだと思うことがあるけど、ここはどうなのだろう。一見かなり自由に訳しているように見えるが、実は原文のすべての語が丹念に活かされている。見事な例なのかもしれない。
 しかし、やりすぎている場合でも、近頃の新訳にありがちな、根拠不明のパラフレーズがなされることはない。仔細に検討すれば、その訳に辿りついた理路は見えてくる。そして、それが非常に勉強になる。

At the little town of Vevey, in Switzerland, there is a particularly comfortable hotel. There are, indeed, many hotels; for the entertainment of tourists is the business of the place, which, as many travellers will remember, is seated upon the edge of a remarkably blue lake – a lake that it behoves every tourist to visit. The shore of the lake presents an unbroken array of establishments of this order, of every category, from the ‘grand hotel’ of the newest fashion, with a chalk-white front, a hundred balconies, and a dozen flags flying from its roof, to the little Swiss pension of an elder day, with its name inscribed in German-looking lettering upon a pink or yellow wall, and an awkward summer-house in the angle of the garden. One of the hotels at Vevey, however, is famous, even classical, being distinguished from many of its upstart neighbours by an air both of luxury and of maturity. (p.3)

 スイスの小さな町ヴェヴェーには、観光の町の常として、ホテルの数は多いが、その中でもとくに快適な気分を味わわせてくれる一軒のホテルがある。あの地方を旅行した人ならきっと覚えているように、この町は、観光客が必ず一度は訪問することになっている湖――湖水の青さで有名なレマン湖のほとりにあり、湖の岸辺には様々なホテルが目白押しに並んでいる。白亜の前面に無数のバルコニー、さらに屋上にひらめく多数の旗というような最新式のグランド・ホテルがあるかと思うと、古風なスイス式の小さなペンションもあり、ピンクか黄色の壁面にはドイツ風のひげ文字で名前が彫ってあったり、庭の片隅に不格好な東屋がしつらえてあったりする。しかし、それらヴェヴェーのホテルの中でも、豪華さと古い伝統とを合わせ持つという点で、「トロワ・クロンヌ」は付近一帯の多くの成り上がりの仲間を圧倒し、評判は高く、最高級という折り紙さえつけられている。(p.9)


 あえて言えば、原文で「a lake」と不定冠詞を使っているところを、わざわざ親切に「レマン湖」と特定して訳す必要があるのだろうか。
 その後に「a hundred balconies, and a dozen flags flying from its roof」とあって、複数名詞の前に不定冠詞がついているけど、おそらく「無数のバルコニー」や「屋上にひらめく多数の旗」をこれらグランド・ホテルにつきもの、お定まりの一式として扱っているのだろう。その感じはなかなか訳せないし、明確に訳そうとすれば(かぎ括弧をつけるなどして)強くなりすぎる。「というような」がやはり絶妙なところかもしれない。


 時間の都合で一々全部の訳文を研究することはないだろうけど、せっかく行方訳を選択したのだから、今後もおもしろい例があれば記録しておきたい。

Daisy Miller (Penguin Classics)

Daisy Miller (Penguin Classics)

  • 作者:James, Henry
  • 発売日: 2007/12/18
  • メディア: ペーパーバック