本の覚書

本と語学のはなし

『失われた時を求めて②』


プルースト失われた時を求めて② 第一篇「スワン家のほうへⅡ」』(高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫
 昨日塾に行くと、生徒は熱のため欠席ですと言われる。私はふだん携帯の電源を切っておくという悪癖を持っているので、連絡のつけようがなかったのだ。仕方ないので、求人に応募するかもしれない会社を見学に行く。自転車だと塾から20分、家までは25分くらい。

 書店に寄り、あれこれ立ち読みをする。古文は新潮社の全集で読むのもいいかもしれない。注釈と部分的な傍訳がついていて、分かりやすそうだ。続けるかどうかは分からないのだけど(今は気分によって読んだり読まなかったり、ドイツ語にしたりしている)。『ボヴァリー夫人』は山田爵*1の訳も見てみたが、やはり「前世の因縁」となっていた。「のようなもの」とぼかしていたようだけど、本文にはもちろんそんな要素はない。
 夕方の街は、塾の教え子や役所の職員らがたくさん徘徊していて危険だ。


 家に帰って、疲れて眠り、起きてプルーストを読み終える。
 これは何度も読み返さないとだめそうだ。すっかり前の内容を忘れている。しかし、日本語で読んでいても、文字の上を滑って行く感じでなかなか内容が頭に入ってこない。翻訳されたものを読む際の心の構えの問題だろう。訳されたものに対して大きな労力を払うことに抵抗があるようなのだ。
 そうなれば、いずれ原文で読むしかない。これは大事業だ。はて、どうするか。
 そんな訳で、時々理由も分からぬまま気分が高揚することはあるのだけど、今一つ『失われた時を求めて』の魅力をつかみ切れずにいる。

*1:森茉莉の子で、命名は鷗外によるらしい。爵は本当は古体で書かなくてはいけない。