本の覚書

本と語学のはなし

枕草子


 ふだん古文を読みつけていないので、敬語にはまだ敏感に反応しきれない。

 御前にまゐりて、ありつるやう啓すれば、「ここにても人は見るまじうやは。などかはさしもうち解けつる」と笑はせたまふ。「されど、それは目馴れにてはべれば。よくしたててはべらむにしもこそおどろく人も侍らめ。さても、かばかりの家に、車入らぬ門やはある。見えば笑はむ」など言うほどしにしも、「これまゐらせたまへ」とて、御硯などさし入る。(第6段)

 中宮様の御前に参上して、さきほどのありさまを申しあげると、「ここでだって、見る人がいないということがあろうか。どうしてそんなに気を許してしまったのか」とお笑いあさばされる。「ですけれど、そうした人は見慣れてしまっておりますから。こちらがよく身づくろいをして飾っておりましたら、それこそかえって驚く人もおりますでしょう。それにしてもまあ、これほどの人の家に、車の入らないような門があってよいものだろうか。ここに現れたら笑ってやりましょう」などと言っている折も折、「これをさしあげてください」と言って、生昌が御硯などを御簾の中に差し入れる。


 前半は中宮定子と清少納言の会話。しかし、清少納言の言葉は、全部が全部中宮に向けられたものではないようだ。注釈を見ると、「『さても』以下は敬譲語がないから、中宮に奏上するのではなく、女房たちに、あるいは独り言として言っているものと見る」とある。そこまでは言われるまで気がつかなかった。
 生昌(なりまさ)がなぜ硯を差し入れたのかはよく分からないが、一説には硯のふたに菓子などを入れたのだという。しかし、校注者は「『御』が添っているところから中宮用の硯その他手回りの品と見る」。こんなことは素人に感じ取れるはずもない。
 それにしても、『枕草子』のように我が国を代表するような作品でも、よく分からないことはいくらでもあるようで面白い。


 雨が降って涼しくなった。昼寝が気持ちよい。