本の覚書

本と語学のはなし

枕草子


 今日も敬語の勉強。

一夜の事やは言はむと心ときめきしつれど、「今静かに御局に候はむ」とていぬれば、帰りまゐりたるに、「さて何事ぞ」とのたまはすれば、申しつる事をさなむと啓すれば、「わざと消息し、呼び出づべき事にはあらぬや。おのづから端つ方、局などにゐたらむときも言へかし」とて笑へば、「おのが心地にかしこしと思ふ人のほめたる、うれしとや思ふと、告げ聞かするならむ」とのたまはする御けしきも、いとめでたし。(第6段)

先夜の来訪のことを言うのだろうかと胸がどきっとしたけれど、「そのうち落ちついて、ゆっくりとお部屋に伺いましょう」と言って立ち去るので、帰って御前に伺ったところ、「それで何事だったのか」と仰せあそばすので、生昌が申したことをここれしかじかと申しあげると、女房たちは「わざわざ申し入れをして、呼び出さなければならないことではないのに。偶然端の方か部屋などに下がっている時にでも言えばよいのに」と言って笑うので、中宮様は、「自分の気持ちの中ですぐれていると思っている人がその人をほめたのを、そなたも多分うれしいと思うだろうというつもりで、話して聞かせたのでしょう」と仰せあそばすご様子も、たいへんすばらしい。


 地の文の句点ごとに主語がころころ変わるのはもう慣れた(句点は後世の人が便宜上入れているのだけど)。敬語に注目すればだいたい誰のことか分かるし、会話も誰に向けて言ったことか分かる(予測が外れる時も、もちろんまだある)。
 しかし、「申しつる事をさなむと啓すれば」は何だろう。「啓す」は中宮に向かって言う時に使う謙譲語だから、清少納言が中宮に言葉を発したのである。「申す」は文脈上どうしたって生昌が清少納言に言ったことを指しているが、なぜそこに謙譲語が用いられるのだろうか。
 そこで注釈の出番である。「『言ひつる事』と言わないのは、その言葉を中宮に伝える形になるので、生昌を中宮に対して謙譲させたもの」。つまり、生昌は直接中宮に言ったわけでもないし、自分の言葉が中宮に暴露されるとも思ってなかったかもしれないが、清少納言を媒介として中宮の耳に触れる以上は、単に清少納言に対して言ったのではなく、間接的に中宮に言ったものとして謙譲させるというのである。なかなか敬語の感覚をつかむのは難しい。