本の覚書

本と語学のはなし

ツイッターとF君


 ツイッターの楽しさが皆目分からないので、参考にしようとフォローの鎖をいくつか辿ってみたら、学生時代に一番親しくしていたF君のページに行き当たった。ベトナムで会社経営に乗り出し、頭は金髪になっていた。哲学を専攻していた頃の関心は保ちながらも、ITの可能性を追求する起業家こそ本職であるという感じであった。
 私はといえば、あれ以来、ずっと下らないことにこだわり続け、あれこれ手を出し何も選択できぬまま、散漫に過ごしてきた気がする。人生をアマチュアとして生きているだけで、中年にさしかかった今でも、未来予想図の中から「ブルーシートを買って上京」を除外することすらできず、吹けば飛んでしまいそうな体たらくである。二十年来浪費し続けた才能を、最近ようやく少しはうまく使えるようになってきたものの、それで大成しようなどとは露ほども考えず、ここまで来れば野垂れ死にしてもまあいいだろうと安心するばかりだ。
 ツイッターの話だった。F君のを見るとリツイート(またはリツイートのリツイート)や短い返信ばかりだ。これが面白いのだろうか。結局よく分からない。彼のつぶやきに返信をすればいろいろ教えてくれるかもしれないし、こういう再会もまたツイッターの面白さの一つだと言われるかもしれないが、とりあえずここまでで終わらせておこう。思い出したらまた検索してみる。彼は本名でネットに現れているので、簡単に探せる。
 まだ何もつぶやいていないのに私をフォローしている人が一人いて、「私のセクシービデオを見てね」と英語でつぶやいている。アカウントは残しておくべきか否か。


 上の文章を書いた後で、F君のブログにもたどり着いた。
 二度会社を辞めた後、自分で会社を興した。凄い会社をつくろうなどという考えは既に捨て、今はささやかな夢(英語に本腰を入れたい、ベトナム語で日常会話ができるようになりたいなど)を持っているだけだという。
 驚いたのは、仏教徒であるとはっきり宣言していたことだ。仏教に思想的な関心があるというのと、仏教徒であるということの間には、大きな隔たりがある。仏教は根本原理が無自性であるという教えであるから神を立てる宗教とは異質であるとは言え、学生時代の彼は宗教への傾きを最も警戒していたはずである。
 それと、政治経済を専門とするある評論家を「先生」と呼んでいるのには違和感を覚える。もちろん彼がその人の著作やセミナーなどから人生が変わるほどの影響を受けているならそれでもいいのだけど、学生時代あんなに熱狂的に受け入れていた柄谷行人は呼び捨てだったはずだし、その彼がその人からそれほどの影響を受けるとは考えにくいのだが。
 ツイッターについては、遊びでもあり仕事でもあると言っている。