本の覚書

本と語学のはなし

通信講座終了ほか


 徹夜で通信講座の課題を仕上げ、今朝投函してきた。これで全て修了。半分は遊んで暮らすための口実であって、効能に期待をしていたわけではなかったけど、やってよかった。講座の内容が素晴らしいとか、添削が丁寧であるとかいう理由ではない。翻訳を通じて読解力が格段に向上したと思うのである。意味は分かるけど訳せないというのはあり得ない話で、実はよく分からないから訳せないのだ、と行方昭夫は言っていた(はず)。最近はあまりミスも犯さず、そこそここなれた訳も作れるようになってきた。意味と文脈を汲み取る力がついてきたのである。


 明日から『トライアル現場主義!』(丸善)でトライアル(翻訳仲介会社に登録するための試験のようなもの)の練習をする。活動を始めるのは3月に入ってからになりそう。当初の予定よりはだいぶ遅れている。締め切りが迫らないと何もしない怠惰な体質であることを再発見した。時々はこれで失敗する。


 『浮世の画家』は明日読了予定。洋書を読むのが趣味ですと言うためには、1日当たりの分量を3倍に増やしたいところ。翻訳離れを推進してから、これまで翻訳を参照していた時間分だけ原典が読めるのはもちろんだけど、不思議と読解力も向上したような気がする。遠からず目標は達成できるだろう。


 今日から紀伊國屋書店がポイント制度を始めたらしい。ル・モンド・ディプロマティク2月号を注文したのは一昨日だが、これは対象にならない。それはいいとして、もう少し発送を迅速にしてほしい。


 F君はたぶん政治経済評論家の弟子になったのだろう。起業するとか、その場としてヴェトナムを選ぶとかいうのは、きっとその人の影響だろう。学生時代の彼の共産主義的思想と矛盾しているかどうかは何とも判定しがたい(ネットの可能性をどのようなラインに沿って評価しているのかはよく分からない)。しかし、ランボーのいわゆる「見者」を礼讃していたこともあるし、何をおいてもニーチェ主義(単に享楽主義のことであったかもしれない)であると言っていたこともあるし、世界を見尽くしたいという欲望が彼を動かす根本的な原理なのだろうとは想像できる。


 ツイッターは集団的に知を集積しつつ行うブレーン・ストーミングみたいなものなのだろうか。最もコアな部分では自己啓発的なものと同じ匂いがしてきそうな予感がする。私が始めるなら、そんなことを無視して、大多数の人と同じように、愚にもつかないことをつぶやいているだけでいいと思う。しかし、ブログとツイッターが両立し得るものかどうか心許ない。私が文章を書く機会はブログに限られるので、ツイッターによってそれが妨げられるとしたら大きな損失だ。安易につぶやいてしまわないということは、私にとっては重要な知の作法となるかもしれない。それと、ツイッターを始めると、いずれF君と出会ってしまいそうだ(現に私は彼を発見している)。そうなったらそうなったでいいのだけど、私としては彼が相当に元気そうだということを知っただけで満足で、それ以上踏み込まなくてもいいと思っている。