本の覚書

本と語学のはなし

Schön ist die Jugend


 英語もフランス語もドイツ語も似たような言語だから、トルコ語スワヒリ語ヘブライ語を学ぶのに比べれば苦労は少ないだろう。たとえ一つを怠けていたとしても、あとの二つに力を入れていれば、それほど腕がなまることはない。


 ヘッセの『青春は美わし』を読んでいてドイツ語らしいと感じた文章(本当にドイツ語らしいのかどうかは分からないが)。翻訳は高橋健二新潮文庫)。

Was dort beständig gefegt, gekehrt, gewaschen, genäht, gestrickt und gesponnen wurde, ist nicht zu sagen, und dennoch fanden die Töchter noch die Zeit, um gute Musik zu machen. (p.21-22)

ここでは絶えず、どんなに掃除や、せんたくや、縫い物や、編み物や、紡ぎ物がなされていたか、言いようもないくらいだが、しかもなお娘たちはよい音楽をする時間を見いだしていた。(18頁)


 掃除、せんたく、縫い物、編み物、紡ぎ物。これらはみんな受動態で表現されている。なぜそんな言い方をするのかは分からないが、ドイツ人は時々奇妙な受け身を使う。そうかと思うと、zu sagen は意味上は受け身なのに、形式上は能動態だ。しかもこれが正式な語法なのである。


 ドイツ語はロマン主義者の言語である、というのが私の勝手なイメージ。知らず知らずドイツ語に距離を取ったのも、そのせいかもしれない。