本の覚書

本と語学のはなし

永平広録巻1


 最近こればっかりだけど、また道元
 鏡島訳と石井訳を上堂114で比較してみる。先ずは鏡島訳。

【読】上堂。云く。仏仏、仏仏に正伝す。この中必ず三物あり。驢胎と馬腹と牛皮となり。這裏(ここ)に現成し払払たり。
【訳】上堂して言われた。仏という仏はすべての仏に仏法を伝えられるが、仏法の中にはかならず三物がある。それは驢馬の胎(おなか)、馬の腹、牛の皮(変幻自在なはたらき)であって、それがここに即座に現れているのである。(『全集10』87頁)


 続いて石井訳。

【読】上堂に云ふ。仏仏、仏仏を正伝す。此の中必ず三物有り。驢胎、馬腹、牛皮(ごうひ)となり。這裏に払払を現成す。
【訳】仏と仏とは、仏の覚りを正しく伝える。こうしたなかに必ず三つのものが入り込む。驢馬の母胎と、馬の腹、牛の皮、つまり異物だ。そこで、それらを払う払子が出てくる。(上141頁)


 大きな違いは三物の解釈である。鏡島はこれを異類中行(仏がどんな衆生の中にもその身を現わし、教化するはたらき)の象徴と見る。これが普通の受取り方だろうし、私にも、それ以外にはせいぜい修業を表すということくらいしか思い浮かばない。払払は、注によれば、風の動きが疾いさま。
 一方、石井は三物を退けるべき異物とし、払払は払子を払うさまを言うものと見ているようだ。仏の覚りには常に異物が混入する、だからその都度取り除かなくてはならない。多分これは全く見当外れの解釈である。