本の覚書

本と語学のはなし

永平広録巻1


 石井恭二の訳(河井出書房新社)も参照することにした。お手付きが多そうな気がして今まで避けてきたけど、全集の訳だけでは疑問が拭えない場合もある。そういう時だけ使うことにする。


 上堂86で全集の鏡島元隆訳と比較してみよう。
 先ずは鏡島訳。

上堂して言われた。朝の粥、昼の飯が十分足りれば、粥飯の上に神通力のすぐれたはたらきが出て来る。雲水が四方より集まり来れば、彼らの上に仏が身を現わして説法する。どうしてこのようであるのか。しばらくして言われた。言葉をもってあれこれ説かないから、みんなが和やかである。(『全集10』71頁)


 続いて石井訳。

腹がへっていては落ち着かない。粥は足り飯が足りれば、微妙なはたらきが身に現れる。雲水たちが寄り集まり、それぞれの身のはたらきを現わして法を説く。このようなことはどうなんだ。
 しばらく沈黙してから云った。
細かく説きはしないが、つまり、和やかなのだ。(上119頁)


 私自身は、粥が足り飯が足りる、それが神通力であり、雲水が集まりくること、そこに仏の説法がある、という風に読んだので、鏡島訳を見てちょっと違和感を感じ、石井訳を見てさらに違和感の上塗りをした(「腹がへっていては落ち着かない」というのは石井の解釈であって、原文にはない)。しかし、おそらく私の一読目の解釈は間違っているだろう。いろんな読みがあることを知るのは大切だ。
 最後の一文もかなり解釈に差があるけど、私には石井訳が分からない。