本の覚書

本と語学のはなし

『正法眼蔵(四)』


道元正法眼蔵(四)』(水野弥穂子校注,岩波文庫
 七十五巻本の「他心通」以下と十二巻本、五つの拾遺からなる。
 十二巻本は道元の晩年に新たな意図をもって書かれたもので、それまでの難解さとは打って変わって実に平易である。「哲学者」としての道元の姿は感じられないかもしれないけど、道元に取りつく島もないと感じるなら、十二巻本から入るのも手だ。


 拾遺の中から「生死」の全文を書き抜く。最も短い巻である。

 生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどわず。
 こゝろは、夾山・定山といはれしふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。
 生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ、生死すなわち涅槃とこゝろへて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるゝ分あり。
 生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かかるがゆゑに、仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かかるがゆゑに、生きたらばたゞこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。
 この生死はすなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなふなり、仏のありさまをとゞむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこゝろにいたる。たゞし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。ただわが身をも心をもすなはちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こゝろをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こゝろにとゞこほるべき。
 仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこゝろなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこゝろなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。(466-9頁)


 今後道元とどう付き合っていくべきか、悩みの種だ。せっかく全集を買っているのだから、詳細に勉強してみるべきかもしれない。しかし、道元を読み続けることに意味があるのかどうか、未だに判断することができない。道元読解に費やす努力は、西洋哲学に向けた方が有益ではないか。
 とりあえずは経済と英米文学の原典と哲学思想の本を中心に読んでおいて、禁断症状が現れたら再び道元を取り上げることにする。

正法眼蔵〈4〉 (岩波文庫)

正法眼蔵〈4〉 (岩波文庫)

  • 作者:道元
  • 発売日: 1993/04/16
  • メディア: 文庫