本の覚書

本と語学のはなし

正法眼蔵


 道元正法眼蔵』の「自証三昧」より。原文は岩波文庫版(水野弥穂子校注)、解釈は春日佑芳の『正法眼蔵を読む』(ぺりかん社)のもの。

 しかあるを、いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ。あきらめんことをまたんは、無量劫にもかなふべからず。たとひ人仏をあきらむとも、さらに天仏あきらむべし。たとひ山のこゝろをあきらむとも、さらに水のこゝろをあきらむべし。たとひ因縁生法をあきらむとも、さらに非因縁生法をあきらむべし。たとひ仏祖辺をあきらむとも、さらに仏祖向上をあきらむべし。これらを一世にあきらめをはりて、のちに他のためにせんと擬せんは、不功夫なり、不丈夫なり、不参学なり。(3.392頁)

 しかるに、「いまだ仏法を明らめていなければ、人のために説くべきではない」と思ってはならない。もし窮極のところまで明らめ知る日を待てば、無量劫の時を経ても、絶対に不可能なことである。たとえ人間世界にある仏を明らめても、さらに天上の仏を明らめねばならない。たとえ山の心を明らめても、さらに水の心を明らめねばならない(?)。
 たとえ因果の道理によって生ずる法を明らめても、さらに、因果を超えて生ずる法を明らめねばならない。たとえ証する仏祖の世界を明らめたとしても、さらに、その仏祖を脱落して、向上に修する仏祖を明らめねばならない。これらをこの一生の間に明らめ終わって、そのちに他のためにしようとするのは、仏道の心得ではなく、仏道を学ぶのでも、その参学でもない。(6.196-7頁)