本の覚書

本と語学のはなし

そういえば


 そういえば、かつて勉強してみたいと公言していた面々はどうなったのか。道元モンテーニュ、カント、ニーチェレヴィナス森鴎外宮澤賢治などなど。深浅の差はあれそれぞれに関係は保つだろうが、一歩踏み込む可能性があるのは道元宮澤賢治くらい。
 道元の著作は量としては手ごろなのだけど、何しろ読むのに時間がかかる。読んでもよく分からない。『正法眼蔵』は未だいいとして、漢文で書かれた『永平広録』なんて読み通せるのだろうか。春秋社が全訳の全集を刊行しているのだが、これがまた遅々として進まない。道元を解釈することの困難を示しているようである。*1このところ仏教への関心は薄れつつある。久しぶりに手にした良寛本にも冷や水を浴びせかけられてしまった。それでも、しばしの休止の後、再び道元に戻って生涯読み続ける可能性は高い。
 宮澤賢治の童話はほとんど読んでいる。大変なのは和歌や詩、たくさん残っているバリアントに目を通すことだろう。と書いていて、もうやる気がなくなってきた。童話なら何回も読み直すだろう(決定稿を!)。
 森鴎外は史伝がハマればというところ。しかし、今直ぐに取り掛かることはない。
 海外の作家で読んだ作品数が多いのは、シェイクスピアドストエフスキーとヘッセ。あまりコンプリートしようと思ったことはないし、今後も特定の作家を偏愛することはないかもしれない。今は英米仏の文学を読もういう考えしかない。

*1:単に『正法眼蔵』担当者の健康上の理由かもしれない。『永平広録』ははやばやと刊行済みである。