本の覚書

本と語学のはなし

「洗浄」


 働いていた頃は暇がないくせにいろんなものが捨てられず、時間を細切れにしながらギリシア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、英語を学び(もっと意欲的だった時期もある)、道元やら法華経やら聖書やら歴史の参考書やらを少しずつ読み進めていたりもした。もちろん、どれもこれも中途半端ではあったけれど。
 新生活を始めて半年。この頃かなりだれて来ている。やることはどんどんシンプルになっている。今学んでいるのは英語とフランス語だけ。毎日紐解くような本はない。


 そこで再び道元を手にしてみる。『正法眼蔵』は二度目の通読の途中、「洗浄」の半ばで投げ捨ててあった。その続きから。ここはトイレの作法の部分なので、難しくはない。春日佑芳の解釈本でも省略されている巻である。例えばこんな感じ。*1

 つぎに洗手すべし。右手に灰匙(くわいし)*2をとりて、まずすくひて、瓦石(ぐわしやく)*3のおもてにおきて、右手もて滴水を点じて触手をあらふ。瓦石にあててとぎあらふなり。たとへば、さびあるかたなをと*4にあててとぐがごとし。かくのごとく、灰にて三度あらふべし。つぎに土をおきて、水を点じてあらふこと三度すべし。つぎに右手に蔞莢(さうけう)*5をとりて、小桶の水にさしひたして、両手をあはせてもみあらふ。腕にいたらんとするまでも、よくよくあらふなり。誠心に住して慇懃(おんごん)*6にあらふべし。灰三、土三、蔞莢一なり。あはせて十七度を度*7とせり。つぎに大桶にてあらふ。このときは面薬*8・土灰等をもちゐず、ただ水にてもゆにてもあらふなり。一番あらひて、その水を小桶にうつして、さらにあたらしき水をいれて両手をあらふ。(198-9頁)


 一体いつになったらトイレから戻れることやら。道元はトイレとか歯磨きの作法にはマニアックなほどうるさかった。潔癖症であったのは確かだと思うが(ある僧を破門にした時、単の下の土まで掘って捨てさせたという伝説がある)、単なるきれい好きではない。作法に則って行動することで、真に清浄になるという信仰があった。カトリックの人は物質的なウェハース状のものがミサを通して神の聖体になると信じている。道元は威儀を通じて仏になっていたのである。


 道元は難解だ。レヴィナスのように、意図的に理解できないようにしているのではないかとすら思う。しかし、基本的な考えは案外単純ではないかという気がする。以前道元を読むのをやめたとき、もう分かってしまったと感じていた。一生付き合って行くなら、いつでも謎が残っていなくてはいけない。
 まあ、そんなに焦って判断することもない。『永平広録』を読めばまた別の顔が見えてくるはずだ。『正法眼蔵』だってすっかり分かってしまったわけではない。むしろ分からないことだらけである。読みこむ余地は優に一生分あるだろう。
 いつまで続くかは分からない。バランスを取るために聖書を読みたいと思うようになり、段々負担が増えて行って、最後にはやめてしまえということになるかもしれない。

*1:テキスト、注釈およびページ数はいずれも岩波文庫(第三巻)のもの。

*2:灰をすくうさじ。

*3:瓦または石の磨石。

*4:砥石。

*5:さいちかの実を粉にしたもの。

*6:ていねいに。

*7:限度。

*8:顔につけて寒暑を防ぐ薬。