本の覚書

本と語学のはなし

『哲学塾 「死」を哲学する』


中島義道『哲学塾 「死」を哲学する』(岩波書店
 《私の死とは、私がこれまで習得してきた言葉の境界を越えることです。とはいえ、私の側からは完全な無ですが、境界の向こうに位置する死の側からの言葉があるなら、その言葉は私の死を語ることができるのかもしれない。私が知っている言葉ではないその言葉によって、私の死を語りだすことができるのであれば、私の死にはまったく新しい意味が与えられるかもしれないのです。》(138頁)


 講座の最後を締めくくる言葉は、中島義道の言葉としては意外な気がする。無とは端的な無であって、有の延長でないとするならば(そのような有としての無ならば、ヘーゲルも西田幾太郎も胡散臭く主張しており、サルトルにおいて最も完成された形態で見ることができるものである)、無についてそのような憶測を持ち出すのは、哲学的なラインを超えて宗教の領域に踏み込むことになりかねない。それほどまでに「新しい意味」を欲するのであろうか。
 仮にそのような無が「ある」のだとしても、それが一体どういうことなのか、もっと説明してくれなくては困る。我々が全く文法を知らないような言語とはいかなるものなのか。そもそも我々が知りえない文法について語ることができるのか。


 無については、考え出すと分からないことだらけである。
 無を想定しなければ、言葉が成立するとは思えない。無を想定しなければ、未来があるとも思えない。しかし、なぜ端的にあり得ないはずの無が、むしろ我々に意味を与え返すのか。
 こう書いている時点で、私の思考はかなりレヴィナスの影響を受けているようである。中島の場合、ユダヤ教の思想に遡及し、殊に難解で不親切な言葉遣いをするレヴィナスにはついていけないと言う。


 《こうして、レヴィナスが「外在性」という共通項だけを選び出して他人と未来とを単純に等号でつないでいるのは杜撰です。レヴィナスには、驚くほど精緻に論を進めていくところと、驚くほど杜撰に枠にあてはめて処理してしまうところが同居している。他人と未来の等号はまさに後者の典型です。
 レヴィナスにとっては、他人のほうが未来より根源的なのですが、これも彼の戦略の現われにすぎません。他人の根源的あり方を基軸にして倫理学も認識論も仕上げるという基本戦略が、彼の理論すべてを方向づけているのです。私には、疑いなく未来のほうがより根源的に見える。〔…ラカン大文字の他者とは違い〕レヴィナスは私に向かって「殺さないでくれ!」と眼が語っている個々の他人を個々の未来と等値しようとしている。それは端的に間違っています。》(81頁)


 果たしてレヴィナスの他人は、ここで中島が言うような単なる個々の他人なのか? 問題がありそうだ。


 《哲学は、哲学者の個人的感性と信念を捨てることなく、そこから普遍性を目指す営みです。》(16頁)


 この本から私への一番の贈り物は、この言葉である。
 他人の方が根源的なのか、未来の方が根源的なのか、そこには恐らくレヴィナスの感性と中島の感性の亀裂があるのであって、直ちに一方を誤りと決めつけることはできないように思われる。
 そしてまた、私が哲学しようとするならば、私の感性から出発するしかないのである。

「死」を哲学する (双書 哲学塾)

「死」を哲学する (双書 哲学塾)