本の覚書

本と語学のはなし

『レヴィナス 無起源からの思考』


●斎藤慶典『レヴィナス 無起源からの思考』(講談社選書メチエ
 久し振りの読了本。ブログタイトルに偽りありと言われても仕方ない。*1


 あまりに長いこと放っておいた本なので、感想らしいことは書けない。そこで、傍線を引いたところから、幾つかを抜書きしておくことにしよう。


《「無」の影がどこから入り込んだかについて、思考は答える術をもたない。だが、思考の内にすでにそれが入り込んでしまっているその仕方を、思考はみずからの錯誤の可能性として捉えることができるのではないか。そしてこの錯誤の可能性が、思考の下では時間と空間という仕方で具体化されるのだ。「無」の影が錯誤として「存在」の次元に入り込んだとき・その場所で、世界ははじめてここに、「現象」する。この「現象」の成立とともに、時間が始まり・空間が開かれるのだ。したがって、次のように言ってもよいはずである。世界は錯誤とともにはじまる。世界の開闢は、錯誤の成立に等しいのだ。》(50頁)


《それは「ありえないもの」なのだから幻だ、幽霊だと断ずることは簡単である。存在の論理はいつもそうしてきたのだ。逆に「ありえないものがある」と断じてしまえば、それは単なる背理であり、そこに見えているものは(もしそれが見えているなら)「ありえないもの(無)」ではなく「存在」にすぎない。そのいずれでもなく、「ひょっとしたら私はありえないものの影を見てしまっているのかもしれない」という思いの下にとどまりつづけること、これこそがレヴィナスの言う「意識の過剰」であり、そのような仕方でしか意識は「ありえないもの」と相対することはできないのだ。》(91-2頁)


 それをレヴィナスは「他(他者)」と呼ぶ。


《私が言葉となって語りだすことを以って時間は流れはじめるのだが、すなわち世界が一つの時間の内で姿を現わし・かくて世界が存在するに到るのだが、私が他者という「ありえないもの」に向かって語り出すに到るその「瞬間」は、(それこそが時間の起源ではあっても)いまだ時間ではないのである。私が他者に「触れる/触れられる」その「瞬間」に「言葉」という事態が成立するのだが、この「瞬間」は時間的な幅をもたないのだった。それは何か「非時間的」とでも形容すべき事態なのだ。》(145頁)


《そもそも理性とは、「顔」の下に「ありえないもの」の影を見て取ってしまった私が、そのことによって「顔」を介して「ありえないもの」の方へとみずからをたえず差し向けてやまない「言葉」と化すこと、ないしはその能力にほかならなかった。この能力によって世界に「方向=意味(サンス)」がもたらされたのである。それはひたすら私からあなたへと向かう非対称で一方向的な運動であり、この運動において私は「ありえないもの」である世界の外部へと向けて世界のすべてを担う者となるのだった。すなわち欲望の主体であり、倫理的主体である。「顔」が命ずる果たし終わることのない無限の責任を担う者は、私以外に誰もいなかったのだ。私は、「顔」へと向けてその全存在を曝し・差し出す「身代わり」となる。
 このように「激化」してやまなかった欲望の運動はついに、私がその全存在を挙げて向かっている「欲望されうるもの」にして「欲望されるもの」たる「他者」の奥底に、もはやいかにしても「欲望しえないもの」にして「望ましからざるもの」が佇んでいる見届けるほどまでに高まる。(中略)欲望する理性にこの「転轍」を強いたのは、「顔」の複数性から発せられた私への釈明の要求だった。》(230-1頁)

*1:「本の覚書」というタイトルは、退職を機に変更しようと考えている。コーヒーばかり飲んでいるので「珈琲は別腹」? 家ではそんなに飲まないだろう。雲の字を使って「雲水日記」? これじゃあ正にタイトルに偽りありだ。「三歩翻訳研究室」といった類に落ち着きそうだが、まだいい案は浮かばない。