本の覚書

本と語学のはなし

哲学翻訳


 気紛れで終わることが多いので一々書き記さなくてもいいのかもしれない。あんた、どうせまたやめるんだから、と言われそうである。しかし、現状では継続が難しいことでも、半年後には生活の一部に組み込みたいと思うものは、試しておくに限る。
 というわけで、聖書とカントを読んでみる。


 私がかつてカトリックであったこと、ひょっとしたら今でもカトリックであるのかもしれないこと、これまでに最も読み込んだ書物が新約聖書であること。それらのゆえに、いつでも聖書は気になっているのだが、今はレヴィナス思想の背景として、したがってとりわけ旧約聖書に関心がある。翻訳は読み慣れているバルバロを用いる。


 カントは久し振りだ。いきなり長い文章に(決して複雑ではないのだが)目まいを覚える。せっかくなので、カントの文体とその翻訳(宇都宮)を紹介しておこう。強調しておくが、これが一文である。


《Daß dieses die wahre Unterordnung unserer Begriffe sei, und Sittlichkeit uns zuerst der spekulativen das unauflöslichste Problem mit diesem Begriffe aufstelle, um sie durch denselben in die größte Verlegenheit zu setzen: erhellt schon daraus, daß, da aus dem Begriffe der Freiheit in den Erscheinungen nichts erklärt werden kann, sondern hier immer Naturmechanismus den Leitfaden ausmachen muß, überdem auch die Antinomie der reinen Vernunft, wenn sie zum Unbedingten in der Reihe der Ursachen aufsteigen will, sich bei einem so sehr wie bei dem anderen in Unbegreiflichkeiten verwickelt, indessen daß doch der letztere (Mechanismus) wenigstens Brauchbarkeit in Erklärung der Erscheinungen hat, man niemals zu dem Wagstücke gekommen sein würde, Freiheit in die Wissenschaft einzuführen, wäre nicht das Sittengesetz und mit ihm praktische Vernunft dazu gekommen und hätte uns diesen Begriff nicht aufgedrungen.》


《このことがわれわれの〔二つの〕概念の間にある真の従属関係であり、道徳性がわれわれにはじめて自由の概念を開示し、したがって実践理性がはじめて思弁理性にこの自由の概念をもって解決のきわめて困難な課題を課し、この概念によって思弁理性をはなはだしく困惑させるということは、すでに次のことから明らかであって、それは現象においては自由の概念からはないも解明されることはできず、ここではつねに自然の機構が手引きとされなければいけないこと、そのうえまた純粋理性の二律背反は、純粋理性が原因の系列において無条件的なものにまで高まろうとすると、一方の側〔自由〕と他方の側〔自然必然〕のどちらにおいても理解不可能な事態に巻き込まれること、だがそれでも後者の方が現象の解明には少なくとも役立つから、もし道徳法則と、それとともに実践理性とが新たに加わって、われわれにこの〔自由という〕概念を押し付けることがなければ、自由を学問の内に導入するといった大胆な所業には決していたらなかったであろう、ということである。》


 こちらも負けじと一文で訳している。言語の構造上避けがたいことだが、これでは原文よりも意味を捉えるのが難しくなってしまう。哲学においては、翻訳を理解するために、しばしば原文を参照しなければいけないのだ。哲学の翻訳は、一般に産業翻訳を志す者の手本とはならないようだ。


 しかし、レヴィナスを訳す熊野は、そういう伝統の中にはいないようだ。あまり適切な例かどうかは分からないが、今日読んだ部分から、原文と翻訳を引用する。


《L’être séparé est satisfait, autonome et, cependant, recherche l’autre d’une recherche qui n’est pas aiguillonné par le manque du besoin – ni par le souvenir d’un bien perdu – une telle situation est langage.》


《分離された存在は充たされ自律しているにもかかわらず、他なるものを探しもとめる。欲求という欠如によって駆りたてられたものではなく、失われた富への追憶によって刺激されたものでもないような探求によって、他なるものを探しもとめる。そうした状況がことば(ランガージュ)なのである。》


 さして長くもない一文が3つに分割された。「他なるものを探しもとめる」を繰りかえすことも、「aiguillonné」を「駆りたてられた」と「刺激された」に訳し分けることも厭わない。哲学者がこんな翻訳テクニックをどこで身に付けたのだろうか。好き嫌いはあるだろうけど、学んでおくべきである。
 なお、この場合、文章が理解できないのは翻訳者のせいではない。「aiguillonné」以外には見慣れない単語はないはずなので、フランス語をかじったことのある人なら理解してくれることと思う。レヴィナスの思考が、用語法が難解なのである。したがって、原文を紐解いても分からぬものは分からないのだ。


 ギリシア語とラテン語にも手を伸ばしたいところだが、それは半年後においても欲張りすぎだろうか。プラトンスピノザにも戻りたい!