本の覚書

本と語学のはなし

【モンテーニュ】悪徳も美徳も力強い精神に発する【エセー1.49】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第49章「昔の習慣について」を読了する。
 主として古代ローマの様々な習慣、とりわけかなり享楽的なそれが紹介される。

Mais, en toute sorte de magnificence, de desbauche et d'inventions voluptueuses, de mollesse et de sumptuosité, nous faisons, à la verité, ce que nous pouvons pour les égaler, car nostre volonté est bien aussi gastée que la leur; mais nostre suffisance n'y peut arriver: nos forces ne sont non plus capables de les joindre en ces parties là vitieuses, qu'aux vertueuses: car les unes et les autres partent d'une vigueur d'esprit qui estoit sans comparaison plus grande en eux qu'en nous; et les ames, à mesure qu'elles sont moins fortes, elles ont d'autant moins de moyen de faire ny fort bien ny fort mal. (p.299)

ところで、われわれは、あらゆる種類のぜいたく、放蕩、快楽を得る工夫、逸楽、華美において、正直なところ、ローマ人に匹敵するようなことをしているのだ。というのも、われわれの意志は、彼らと同じく、だめになっているのだから。ところが、われわれの能力は、そこまでは及んでいないし、われわれの力は、悪徳の部分でも、美徳の部分でも、彼らに比肩することができないのである。悪徳にしても、美徳にしても、それは力強い精神に発するものなのであって、彼らにおいては、それが、われわれとは比較にならないくらいに偉大なものであったのだ。心というものは、弱ければ弱いほど、大きな善や、大きな悪をなす力も、それだけ小さくなってしまう。(p.291)

 ニーチェは、好んでモンテーニュを読んでいたことがある。
 この言葉なども、そっくりニーチェの著作にあったとしても不思議ではない。


 当然ながら、読書の量は減っている。だが、とにもかくにも継続しなくてはならない。

【モンテーニュ】カエサルはスウェーデン族について【エセー1.48】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第48章「軍馬について」を読了する。
 主に馬の話である。鉄砲などという飛び道具には信頼を置かず、いずれ廃れるのではないかという予想もしている。モンテーニュは、鉄砲が日本に伝来した頃の人である。


Caesar, parlant de ceux de Suede: (p.291)

カエサルは、スウェーデン族について、こう述べている。(p.276)

 『ガリア戦記』にスウェーデン族は登場しない。カエサルの知っているゲルマン人は、フランスに接する辺りにいて、しばしばガリアに侵入した人たちだけである。
 宮下の注を見ると、「スウェーデンSuede」とあるのはモンテーニュの誤記で、「スエビ族 Suebi」のことであると言っている。実際、カエサルが述べたこととしてモンテーニュが書いているのも、『ガリア戦記』4.2にあるスエビ族の記述に一致する。
 本当にスウェーデン族と思っていたのか、ただの書き間違いか、あるいは印刷屋が間違ったのか(モンテーニュは誤植には寛容であった)、あるいは別の本を見ていたのか。現代フランス語訳の注には、Ramusという人のDe moribus Gallorumという本の名が挙げられているが、これは1599年の出版らしい。


 新生活が始まった。
 洗い場に応募したはずなのに、フロントに入ることになった。仕事内容ははるかに複雑だろうし、時間もフルに働くことになった。思い描いていたような老人の余生とは、まったく違うものになりそうだ。
 求人票よりもじゃっかん時給がよい。今春より更衣の時間も勤務に入ることになったそうで、その分想定外の賃金も発生する。倹約すれば十分暮らしていけるだろう。
 読書はモンテーニュセネカプルタルコスに集中することにした。大量に本を注文する。原文も翻訳も入手した。もう何も買わなくてもよいと今は思う。
 本も物も、不要なものは大量に処分した。まだこれは第一弾にすぎない。


 続けているのは、英仏ニュース、ニューヨークタイムズ、ドラマ『フレンズ』、モンテーニュセネカプルタルコスの原典、和書。
 ここから少なくとも2つ削るのが現実的であるように思われる。

ガリア戦記/カエサル

 7年にわたるガリアでの戦闘の記録。淡々と客観的に描かれており、カエサル自身について語るときも、「わたし」ではなく「カエサル」と三人称が使われる。
 弁論にも長けていたと言われるが、文筆家としても一流で、『ガリア戦記』を読む人はただ単に歴史を研究するのではなく、その簡潔な文章術をも学ぼうとする。冒頭の一文は、古典教育が盛んであった頃であれば、皆かならず暗記していたものである。

ガリアは全部で三つに分かれ、その一にはベルガエ人、二にはアクィターニー人、三にはその仲間の言葉でケルタエ人、ローマでガリア人と呼んでいるものが住む。(1.1, p.23)

Gallia est omnis divisa in partes tres, quarum unam incolunt Belgae, aliam Aquitani, tertiam qui ipsorum lingua Celtae, nostra Galli appellantur.

 省略できる単語はすべて省略し、必要最小限の言葉で的確に情報を伝える。これも一つの名文なのである。
 ところで、ベルガエ人の住む土地というのは、ベルギーの辺りのこと。ケルト人(ローマ人のいわゆる「われわれの言葉では」ガリア人と呼ぶ)が住むのは、フランスである。アクィターニー人が住むのもフランスの一部であるが、後にモンテーニュを輩出するアキテーヌ地方のことである。
 モンテーニュはしばしばカエサルのこと、カエサルの著作のことを思考の材料としてとりあげる。モンテーニュカエサルを隔てるのは1500年、われわれとモンテーニュを隔てるのは500年ほどであるけれど、彼らの1500年の方が遥かに近いように思われる。

集まっていたエブローネース族とネルウィー族の部隊はこのことを知ると立ち去り、カエサルはこの事件後やや静かなガリアをもつことになった。(5.58, p.186)

Hac re cognita omnes Eburonum et Nerviorum quae convenerant copiae discedunt, pauloque habuit post id factum Caesar quietiorem Galliam.

 カエサルの軍隊は全部がローマ人であったのではない。ガリア人もいたし、ゲルマン人もいた。彼らの協力を得ながら、ガリア人やゲルマン人ブリタニア人(イギリスへも遠征している)と戦ったのである。
 カエサルは単に戦闘を行っていたのではなく、政治を行っていたのであり、戦うことよりも、いかに戦わずに済ませるかを考えていた。
 だが、なぜローマはあらゆる方面で覇権を握らなければ気が済まなかったのか。それは私にはよく分からない。ガリアは部族間でも、部族内でも、しばしば対立をしていたからまとまりはなかったけれど、それでも毎年のように反乱を繰り返すのは、理解できることであるのだけど。


 話は変わる。
 パートとはいえ一応仕事が決まったので(今月後半から勤務開始)、思い切ってプルタルコスセネカの原典と翻訳を、既に持っている分を除いて、一気に注文した。
 車の購入を除けば、これほど一度に使ったことのないような金額である。だが、どのみち買わなければいけない本である。低賃金を嘆いて財布のひもがかたくなる前に、買ってしまった方がよい。その代わり、今後はなるべく買わないことにする。今ある本だけを読み続けても、読み尽くすことはできないのだから、それで満足したい。
 本が届いたら、本棚の整理をする。かなり大掛かりな移動になりそうだ。処分する本もたくさんあるだろう。